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かい盾 |
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日本の戦士は、世界の戦士たちとと比べて珍しく、盾を使わずに戦います。とはいえ、まったく使用しなかったわけではありません。古代では右手に武器を持ち、左手には盾を持って戦いました。しかし、日本ではすぐに手持ちの小型盾は主流ではなくなってしまいます。 ![]() その代わりに用いられたのは大型の盾、全身を隠すことのできる置き立てでした。百五十センチの長さを持つこのかい盾は体全体を隠すことが可能な優れものでしたが、重量が重く盾を持つ専用兵種である盾足軽などと言うものが存在したほどでした。 手持ちの小型盾もそれなりには活躍したそうで、『手立てがない』と言う言葉は小型の『手盾』から来ているとかいないとか。大型の盾に隠れて弓を射るという戦術はよく使われたそうで、このような戦いを楯突き戦と言うようで、案外ここから楯突くという言葉が生まれたのでしょう。 日本語には武具から生まれた言葉が実に多いように思われます、他の地域でも似たようなものかもしれませんが。 さて、日本人の好んだ防具は実のところ鎧でも兜でもなくこの大型の盾でした。二枚の板を並べて裏に横木を打ち、さらに盾を支えるために可動式の足を持つと言う形状で、盾足軽にこれを携帯させ、後ろから射手が射撃をするという姿がよく見られました。 これを複数並べれば即席の城壁にもなり、野戦でもそれなりの活躍をしました。障害物として騎兵を防ぐ効果もあったことでしょう。これをもっとも奇抜な方法で用いたのは南北朝時代の英雄、楠木正成です。彼は五、六百人ほどの雑兵に通常二枚の板を使うところを一枚板の盾として軽量化を施したものを使用させました。 これらの盾には端の方に掛け金があり、瞬時にしてつなぐことができたそうです。敵の攻撃に際し、楠木正成はこの盾を瞬時連結させて隙間をなくし、迫る敵を安全なところから一方的に射撃して長篠の戦に似た即席野戦築城じみた迎撃戦を展開します。 古墳時代のころから活躍していたように見えるこの大型の盾ですが、戦国時代になるとかげりが出始めます。鉄砲の強力すぎる威力に、この盾では対応が難しくなったからです。打開策として盾の厚みを増やしたり、表面に鉄板を張って強化するなどしましたが、根本的な解決に至ったかどうかは定かではありません。鉄板の方は厚みしだいで期待が持てたと思いますが。 同時期に新兵器である竹束が開発されたようですので、やはり問題は山積みだったのでしょう。鉄を使用するのは金がかかりすぎるし、竹は安いので生産が容易です。これらの理由から置盾は使用頻度が減らされていくことになるのでした。 次に進む 前に戻る |