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南船北馬と西船東馬


広い広い中国大陸は、大きく分けて三つの地域が存在しています。平原の広がる北部。山岳地帯の西部。そして、川と森に囲まれた南部。この内、西部は比較的無視されがちで、中国は大きく南北で分けて考えられます。

南船北馬と西船東馬

上記の理由から、中国北部は陸運が盛んであり、長江をはじめとする河川に恵まれた南部は水運が盛んです。そのような理由から、中国では南船北馬という言葉が存在します。北では馬を使い、南では船を使うのです。

実際、中国での戦いは、北部では馬が重要であり、南部では船が重要とされました。有名な三国志でも、騎兵戦を得意とする北部の国が、水上戦を得意とする南部の国に苦汁を舐めさせられるシーンが見られます。

さて、日本はどうでしょうか。実は、日本も地域によって似たような傾向を持ちます。島国であるため、全国各地当然のごとく水運は盛んです。しかし、軍事面では大きな違いがありました。

日本は、西では水上戦が盛んであり、東では騎兵戦が盛んです。これには、西と東がお互いに持っていない地形を所有しているからです。

まず、西日本には瀬戸内海があります。瀬戸内の海賊といえば古来から有名であり、この地域では船戦が非常に多く見られました。戦国から四百年ちょい昔の源平合戦でも、西日本を支配する平家は海上戦を得意としています。

では、東日本には何があるでしょうか。ご存じ、関東平野です。平地に囲まれた関東は馬の育成が盛んであり、馬上戦に長ける彼らは坂東武者の異名で知られました。戦国においても、全国最大の騎兵を保有するのは関東の北条家です。山岳地帯を支配する武田家ではありません。

このような影響から、西は船に優れ、東は馬に優れるという傾向が日本史からは見えてきます。あえて四字熟語を作るなら、西船東馬と言ったところでしょうか。この傾向は戦国時代においても普通であり、さらにここに鉄砲という要素が加わります。

鉄砲は外国から入ってきたものでした。外から日本に入るには、九州を経由する必要があります。自然、九州は外来知識の流入口となり、他地域に比べ多くの利益を得られます。鉄砲伝来で有名な種子島も、九州南部の島なのは偶然ではありません。

こうなると、今度は西船鉄砲東馬となります。船戦の少ない九州とかだと、船が消えて鉄砲だけが異常に目立つ傾向が出てきます。それでも、貿易の関係から九州は優秀な船乗りを排出する地域でした。明治時代に優秀な海軍士官が九州や四国から排出されたのは偶然ではありません。

さて、馬の価値が低い西日本は、比較的に騎兵弱小地域でした。しかし、問題はあまり大きくありません。なぜなら戦国時代は歴史上、機関銃が開発されるまでの間において騎兵が最も価値を失っていた時代の一つだからです。

カモであるはずの歩兵は長柄槍を構え、突撃を粉砕してきます。遠距離では命中率の低い火縄銃も、図体がデカイために命中しやすいです。さらに、日本は山がちで平地が少ない。戦場の華であるはずの騎馬武者は、とっても生きにくい時代だったのです。

結果、西日本では騎兵の異常減少が発生しました。戦争は歩兵が完全に支配し、たまに登場する騎兵も鉄砲の前で露と消えます。西日本の兵士は騎兵との遭遇率を減らしていき、その対策が全軍に知れ渡らなくなります。この状況を指摘する文章が、江戸時代の文献にあります。幾度か引用した雑兵物語です。

そこの記述を記すとこうです。ある時、騎馬武者が五十ばかりで隊をなし、敵陣に突っ込んだ。騎兵突撃に慣れてない敵はあっという間に崩されてしまった。西国の武士は馬に乗って戦う習慣がないから、こんなことになってしまった。このように、江戸時代の頃の文献から西国の騎乗戦闘の習慣が薄れがちになっていることが見えてきます。

同じ雑兵物語の中で、こんな話もあります。馬のくつわ取りの話ですが、主君が馬に乗って戦おうとするときの注意です。その話では、こうあります。最近、馬の上で戦う習慣が少ないため、馬上の武者は刀を抜くとき馬の首を傷つけてしまうことが多い。そうすると馬が暴れだすので気を付けるように、こんな感じです。

戦国時代において、馬上戦闘がいかに減少しているかがわかるでしょう。ただし、絶滅しているわけではありません。量が減っているだけで、存在していることが上記の会話からでもわかってもらえると思います。

ちなみに、雑兵物語の成立は島原の乱以降であり、戦国時代の実像を描ききっているとは言い難い所もあります。さすがに戦国時代を生きた武将たちがこんな無様をさらしていたとは思いたくないですね。

さて、では船戦について見てみましょう。先ほどの西日本勢の愚かさに対し、今度は東日本の愚かさが説かれます。東の武者は馬に乗れるが船に乗れない。東の武者が敵に襲われた際、船の片側に寄りすぎて重心が傾き、船がひっくり返って全員がおぼれ死んでしまった。このように話が続いていたのです。

この文章からだけでも、東日本が船戦を苦手としていることがわかります。とは言え、紀伊半島や愛知、関東あたりには立派な港もあるため、内陸部の連中にその傾向が強いと言ったところでしょうか。実際、信長は伊勢の戦いにおいて自前の水軍だけで伊勢の軍隊を圧倒していました。

このように、戦国時代は地域によって軍隊の編成や戦闘教義に差が存在していました。それらをいかに勝利に結びつけるか。それを苦心していた武将たちの気持ちを察するのは、後世に生きる我々にとって実に面白いことであると私は考えていますが、いかがでしょうか。



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