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戦国武将の家臣団比較・三英傑編



人間というものは、一人一人は弱く、集団を作ることによって生きてきました。人は組織を作り、国を作り、自分以外の人間の力を用いて共同体を作ります。そして、戦国武将たちもその例に漏れませんでした。


戦国武将の家臣団比較・三英傑編



このページでは、戦国武将たちの家臣団を比較してみようと思います。どれほど優れた人物であろうと、一人では天下に覇をとなえることはできません。手足となって働く武将たちが、どうしても必要でした。

中国には、「三軍は得やすく一将は得難し」という言葉があります。兵士はいくらでも集められるが、良き将は、なかなか得られないという意味です。ナポレオンは言いました。「無能な大隊は存在しない、無能な大佐がいるだけだ。今すぐそいつの首を切れ」。つまり、武将こそが最重要なのです。

では、戦国武将たちの家臣団を比較してみましょう。まずは、戦国三英傑からです。それぞれを役割別に比較して、どのような人材を確保できていたかを見てます。外様っぽい連中を入れると面倒なので、直臣と陪臣に限って比較します。ちなみにこれは、某サイトに触発されて作成を思いついたものです。


『家臣の役割』
・信頼できる腹心:そばにいると心強い、信頼できる家臣。
・欠点を補う家臣:君主の弱点を補う家臣。
・知略優れた家臣:知略で君主を助ける家臣。
・戦略級の名将:主力級の別働隊を使いこなせる家臣。
・戦術級の名将:地域の守備、もしくは君主の指揮下で戦術的な活躍ができる家臣。



【信長の家臣団】
・信頼できる腹心:森蘭丸
・欠点を補う家臣:なし
・知略優れた参謀:なし
・戦略級の名将:明智光秀、木下秀吉、柴田勝家、滝川一益、丹羽長秀、佐久間信盛、織田信忠
・戦術級の名将:前田利家、森長可、佐々成政、他多数

『論評』
天下統一目前まで突き進んだ織田軍団の家臣を並べてみました。戦国史上、戦略級の武将を最も多く抱えていたことが特徴として挙げられます。

明智光秀、木下秀吉、柴田勝家、滝川一益、丹羽長秀、佐久間信盛、織田信忠という名将たちがいるのが織田家最大の特色です。誰もが一流の武将であり、それぞれが特定地域で戦果を挙げています。

軍事史上、君主の指揮下で活躍できる武将は多くいますが、君主から切り離されて成功を収められる将軍はあまりにも少ないです。遠征部隊の大将を勤められるだけの格と質を併せ持った武将を多数抱えることができたことが、信長が三英傑として数えられた所以でしょう。

実際、多くの英雄たちは自分が指揮する時は強いのに、部下に総大将を任せると敗北するということがよくあります。三国志の英雄である曹操の敗戦は部下によるものが多数です。ナポレオンも自分が指揮していない時は敗北がかさんでいます。信長ですら、信雄に指揮を任せて伊賀忍者に敗北したりしています。

つまり、君主がいない時に勝利をおさめ、支配領域を広げられる武将を持てるということが、大英雄になるための条件であると言えるでしょう。地域統一をおさめた大英雄の下には、巨大な大規模別働隊を引き入れる名将の姿が必ず存在していたのです。

実際、上記の曹操は戦略級の将軍の不足から中国を統一できませんでした。ナポレオンも、戦略級の武将がダヴー、マッセナ、ランヌくらいしかいなかったため、欧州統一を果たせませんでした。これに対しチンギス・ハンはジュベとスブタイという戦略級の武将を抱えていたため、世界最大の征服者になれました。

では、なぜ信長はこれほどの人材を得ることが出来たのでしょうか。ずばり、身分や生い立ちに縛られない人材登用を行った結果であると言えるでしょう。他の多くの武将が良家の子弟の中から有能な人物を探し出していたのに対し、織田家は無限のプールから人材を引っ張ってこれたのです。

上記に挙げた人物の中で特に優れていたのは、秀吉、光秀、勝家、一益の四人でしょう。秀吉は農民出身、光秀は出自の怪しい武士、勝家は謀反人、一益は出自の怪しい忍者出身。どいつもこいつも微妙な連中でしたは、信長は彼らを拾い上げ、その力で天下のほとんどを掌握したのでした。

戦術級の武将にも恵まれています。前田利家、森長可、佐々成政といった、狭い地域であれば活躍できる武将や、信長が手綱を握っている時に限り無類の強さを発揮する武将など、数多くの名将を抱えています。戦略級、戦術級ともに恵まれた布陣であると言えます。

では、次の織田家の問題点を見てみましょう。織田軍団の欠点としては、信頼できる腹心が蘭丸程度しかいなかったこと、そして欠点を補える家臣が一人もいなかったことであると考えられます。

嫌われ役になりやすい立場の森蘭丸は信長の手足にはなれたが、それ以上のことは出来ませんでした。さらに、信長の欠点を補える武将がいなかったことは致命的であったと言えるでしょう。

さらに、身分や生い立ちによらない武将の登用には、軍団長に対しては血縁による縛りが効かないという欠点があります。親族や代々の部下であれば効くブレーキが、ぽっと出の英傑には存在していないのです。最終的に明智光秀が裏切った背景には、そんな事情があるのかもしれません。

信長の失敗を理解してか、以降の後継者は血縁関係にない武将を総大将に活用しておらず、したとしても養子にするなどの予防線を貼っているようです。やはり、他人に大事な軍隊を預けるのは、君主にとっては不安なものなのでしょう。信長がいい加減すぎただけかもしれませんが。

それでは、まとめに入りましょう。織田軍団の強さは身分や生い立ちによらない有能な武将の活用にありました。しかし、それは常に裏切りの危険を孕むものでした。血縁者でも怪しいのに、他人であればもっと危険ということです。

さらに、織田家には信長を補助する軍師や参謀がおらず、欠点を補う者もいませんでした。そのため、信長は自らの長所によって成功し、短所によって滅びていったのです。そこに、織田信長という風雲児の限界があったのだと私は思います。



【秀吉の家臣団】
・信頼できる腹心:石田三成、大谷吉継
・欠点を補う家臣:豊臣秀長
・知略優れた家臣:竹中半兵衛、黒田官兵衛
・戦略級の名将:豊臣秀長、豊臣秀次
・戦術級の名将:加藤清正、福島正則、加藤嘉明、仙石秀久、山内一豊、藤堂高虎、他多数

『論評』
信長が成し遂げることの出来なかった天下統一を成し遂げた大英雄、豊臣秀吉の家臣団を並べてみました。最大の特徴としては、同時代でも五本の指に入るほどの大将軍である、豊臣秀長を擁していることだと言えるでしょう。

秀長は戦国時代において、五人しかいなかった10万以上の兵力を活用した武将です。他の四人は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、上杉謙信のみです。つまり、秀長はこれらの四人に比肩するほどの人物であったと言えるでしょう。

しかも、秀長はこの部隊を見事に動かして勝利を収めています。四国征伐と九州征伐の成功は、秀長の存在なしには語れません。大規模別働隊を率いる統一英雄クラスの武将を弟に持っていたことが、秀吉の第一の幸運でした。

続いて、第二の幸運としては秀次という後継者に恵まれていたことです。秀次は秀長に及ばないものの、数万の兵力を率いて度々活躍した上、奥州征伐においては六万の兵力を使いこなし、反乱鎮圧を成し遂げています。

部下が有能だった、兵力が多かっただけという見方もできます。しかし、軍事史には大兵力を動員しながら敗北する征服者の例で満ちています。そもそも、大兵力を遠隔地で見事に運用できるということは、非常な困難を伴う離れ業なのです。秀次は、それを見事にやってのけました。

秀次は長久手の戦いでこそ無様をさらしましたが、人間は成長するものです。誰しも、十年前の自分と今の自分が同一でないことに気づくでしょう。秀次もそうでした。長久手の愚将は、奥州征伐の名将となっていたのです。

つぎに、戦術級の武将を見ていきましょう。福島正則、加藤清正、加藤嘉明らをはじめとする子飼いの七本槍。仙石秀久、山内一豊、藤堂高虎といった局地戦の名将を多く抱えます。ただ、彼らは君主の元を離れると活躍の度合いが大きく目減りするという限界を抱えてはいましたが。

知略面では竹中半兵衛、黒田官兵衛の二人を擁しています。腹心としては石田三成、大谷吉継の二人。欠点を補う武将としては、弟である豊臣秀長がいます。つまり、全ての層に全ての人材が色濃く存在していたのです。

信長に出来なかった天下統一を秀吉が出来たのは、このように家臣の層の違いにあったと思われます。人は、決して一人では大きな事をなしとげられません。さまざまな能力を持つ仲間たちに助けてもらうことで、初めて目標を実現できるのです。

では、豊臣家の欠点を見ていきましょう。豊臣家における第一の欠点は、織田家の特徴であった身分や生い立ちによらない人材登用を半ば放棄してしまったことです。

たしかに、黒田官兵衛や仙石秀久、加藤嘉明や藤堂高虎など、身分や生い立ちの微妙な連中を取り立てることはしました。しかし、彼らは決して主力級の大部隊を率いることはなかったのです。別働隊としての活躍こそしましたが、織田家ほど奔放に権力委譲したいたようには見えません。

おそらく、これは主君であった信長の滅亡を見たことによることが原因でしょう。血縁で縛っていない連中を別働隊の総大将にしては、謀反を起こされる可能性が出てくる。そのため、二万前後の兵は任せても、それ以上の大兵力は秀長や秀次にしか任せようとしなかったのです。

さらに、豊臣家は織田家時代よりも家臣の層と質で大きく恵まれていましたが、一つだけ劣った面を持ちました。それは、戦略級の武将における量の不足です。

血縁者以外から戦略級武将を採用できないため、人選に用いれる人材の数は限られていました。秀長、秀次という名将を幸運にも抱えていたからよかったものの、この二人を失った後、それを代行できる存在を秀吉は最後まで見出すことが出来ませんでした。

実際、後の朝鮮征伐において、養子に近い立場であった宇喜多秀家を総大将にしました。しかし、彼には能力と格が足りず、秀長や秀次のように遠征を成功させることができなかったのです。戦略級の武将の不足。それが、豊臣家における第二の欠点でした。

最後の欠点として、秀吉の欠点を補える武将が秀長しかいなかったことです。秀長存命時は秀吉の欠点を秀長が押さえることができましたが、秀長の死後、秀吉は暴走します。

まともな戦略級武将がいないのに遠征軍を朝鮮に送り込み、消耗戦を体験しました。朝鮮討伐を反対する重臣を粛清し、秀頼のために秀次を殺害、さらに豊臣家に恨みを持つ者たちを量産した揚句に、秀吉は死亡します。

まとめに入りましょう。秀吉は信長以上に恵まれた家臣団を率いて天下を統一しました。質量ともに圧倒していましたが、唯一方針の違いから戦略級武将だけ数が不足していました。しかし、日本国内統一においてはそれで事足りました。

しかし、とくに重要な家臣であった豊臣秀長を失い、秀吉は全てを失う破滅の道へと足を踏み入れました。どんな大英雄と言えども、優秀な部下がいなくてはどうしようもないのです。

欠点を補える家臣がいない君主はいつか滅びる。信長と秀吉の末路は、それを嫌というほど教えてくれる実例であると言えでしょう。



【家康の家臣団】
・信頼できる腹心:本田正信
・欠点を補う家臣:榊原康政、他多数
・知略優れた参謀:本田正信
・戦略級の名将:なし
・戦術級の名将:本田忠勝、酒井忠次、井伊直政など

『評論』
豊臣の天下をひっくり返して天下統一した徳川家康の家臣を並べてみました。見所としては、小型の名将に恵まれているという点です。戦術級の名将の質の高さは凄まじく、徳川家康の生涯勝率の高さが彼らに支えられていたことは一目了然です。

家康が判断を誤りそうになった時に諌言できる忠義の武士、榊原康政の存在も見逃せません。信長は、このような武将がいなかったために身を滅ぼしました。秀吉は、このような武将がいなくなったために暴走したのです。

君主ですら正論で黙らせられる武将の存在がいなくては、その勢力が衰えることは避けれれないのです。このように自分の欠点を補える武将をそばに置いておけるかどうかが、君主としての器量を問われる部分なのでしょう。

謀臣としては本田正信を抱えています。彼は取次なしで家康に意見できる人物でした。こういう武将を抱えておける懐の大きさは、そう簡単に持てるものではありません。榊原康政と本田正信の存在は、徳川家康という人物を分析する際に、決して無視することはできないはずです。

では、徳川家の欠点を見ていきましょう。徳川家の致命的な弱点としては、戦略級の武将を持たないことです。家康は生涯に一度だけ、大規模別働隊を動かしています。かの有名な関ヶ原の戦いにおいてです。

この時、息子である徳川秀忠は、徳川家の主力部隊を率いて行動していましたが、本戦遅参という大失態を犯しています。これは家康のミスでもありましたが、秀忠に戦略級の武将としての資質が欠けていたことにも原因があったでしょう。

徳川家は織田家や豊臣家と違い、身分や生い立ちによらない人材登用を積極的に行いませんでした。ただ、まったく行わなかったというわけではありません。例外として有名な人物に、井伊直政と本多正信がいます。

四天王の大半は旧来の家臣でしたが、井伊直政だけ毛色が違いました。井伊家は今川家に仕えていたために外様でしたが、直政は徳川家第一の家臣になるほどに出世します。身分的には井伊という名家出身ですが、元敵の家系の人間をこれだけ出世させたという点に注目したいです。

次に、三河一向一揆で敵対した本多正信を腹心に引き入れています。これも本多という三河武士の家系で出生の怪しい人物というわけではありませんでしたが、敵対していたのは事実です。

このように、家康は人材登用の仕方が微妙であり、信長や秀吉に比べ、狭い人材プールの中から部下を得ていました。そのため、どうしても二人の英傑と比べると部下の質において劣ってしまっていたのです。

ただ、これは家康が愚かであるというよりは、信長と秀吉が先進的すぎたというのが事実でしょう。実際、他の戦国武将はここまで見境なしの人材登用はほとんど行っていません。秀吉ですら、総大将クラスには血縁者を用いています。

はっきり言いますが、秀吉が秀長や秀次を擁していたことは、奇跡です。そして歴史上、そんな奇跡に恵まれた英雄でなければ天下を統一が難しかったのも事実です。源頼朝には義経がいました。足利尊氏には足利直義がいました。

逆に、血縁者を用いずに成功した例としては、中国の劉邦が韓信を用いて天下統一をしてます。チンギス・ハンはスブタイにジュベ。しかも、このジュベはチンギス・ハン暗殺を謀り、死の直前まで追い詰めた怨敵です。しかし、チンギスは彼を許しました。だからこそ、彼は名将を得たのです。

まとめに入りましょう。徳川家は戦略級の武将にこそ恵まれなかったものの、その他の武将においてはそこそこ揃っていました。欠点を補える武将を失ったあとも、それなりに抑えてくれる武将がいたことで、欠点で身を滅ぼすこともありませんでした。

家康には諫言を受け入れる系の逸話が多く、自分の欠点を他人を通して見つめることのできる心の大きさがありました。個人的に、家康が秀吉を大きく上待っていたのはこの部分であると考えています。軍人としては劣っていたが、人間としては勝っていたのです。

ただ、天下統一英雄として、戦略級の武将を抱えていなかったことは致命的でした。実際、遠征能力の欠如は徳川家の行く末に暗い影を残しています。

関ヶ原の後、家康は敵対した島津を減封すべきでした。しかし、遠征能力に自信のない徳川家は島津家に妥協してしまいます。このため島津は大禄を維持し、それが幕末における徳川幕府滅亡につながるのです。

その事を鑑みるに、家康にとって幸運だったのは、秀吉が先に天下統一してくれたことです。残る敵である北条、長宗我部、毛利、島津、上杉、伊達などの多方面に点在する巨大勢力を秀吉は残らず叩きのめしてくれています。

戦略級の武将に欠如する徳川家には、おそらく同じ芸当はできなかったでしょう。もし家康が信長の後継者戦争に勝利していても、家康では天下統一は難しかったと思われます。天下統一に必要な人材が、あまりにも欠如しすぎていたからです。

徳川家に家康は一人しかいない。それが徳川最大の弱点でした。しかし、外に豊臣秀吉がいてくれたのです。徳川家康は、豊臣秀吉のおかげで天下統一を成し遂げ、二百年の太平の時代を勝ち取ったのだと、私は考えています。










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