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武田家の戦闘教義 |
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ようやく超メジャー・ダイミョーである武田家の紹介です。戦国最強国の一角である武田は戦国時代の中でも一、二を争うほどの人気武将だと思います。では、武田家の戦闘教義、戦術と軍隊を見てみましょう。 『戦術面』 きつつき戦法 別働隊戦術 工兵攻城 片翼包囲 『軍隊面』 赤備え 木槌 ゆる矢じり 独特な戦術はあまり多くなく、純粋な強さと将兵の質の高さこそが武田家最大の武器でした。特に野戦での強さはすさまじく、武田信玄は生涯に二度しか戦術的敗北を喫することはありませんでした。戦闘能力だけで言うなら徳川家の上位互換といったところでしょう。ただし、徳川家にはない欠点も多く、それは後半顕著になります。では、見ていきましょう。 ------------異様なほど強かった武田軍------------ 山奥のド田舎である甲州で育った人々は、その厳しい環境条件から剽悍でたくましい兵を生む土壌の中で暮らしていました。彼らが兵士となった時の強さはすさまじく、『甲州兵一人は尾張兵五人に匹敵する』と言われるほどの強さを誇ります。 その強さを支えるのは武装面もまた重要でした。当時の槍勝負が穂先による突きあいではなく、殴り合いだと気づいた武田家は槍の先端付近に木槌を取り付け、打撃の応酬を有利にし、槍兵の能力を底上げしました。 さらに、矢の金属部分と木の部分の結び目を弱めておく『ゆる矢じり』によって敵の士気を揺さぶります。武田の矢が刺さった時、抜こうとしても結び目が弱いので木の部分を引き抜いても金属部が体に残り、そこから傷口を腐らせてしまうというものです。 このような独特の装備によって、武田軍団は周囲から恐れられていました。最強の一角にされるのも、当然の結果と言ったところでしょうか。 ------------最強部隊・赤備え------------ 諸説ありますが、戦国時代最強の部隊といえば、まず赤備えという単語が出てきます。赤備えとは赤く染めた甲冑を着た兵士のみで部隊を固めた集団のことです。 赤は目立ちやすく、勝敗が目に付きやすいので彼らの動きは重要になります。万が一、赤備えが敵に撃退されようものなら、他の味方がうろたえます。つまり、赤を纏える者は精鋭でなければいけません。 そこで、赤備えは必然的に精鋭部隊となります。これを創始したのは名将・飯富虎昌でした。十倍の敵を平然と撃破する彼の部隊は伝説となり、後の赤備え精鋭神話を生み出します。 飯富虎昌の死後、赤備えを継承したのは弟の山県昌景でした。彼も十倍の敵を撃破するほどの名将であり、赤備え神話を持続させます。 武田滅亡後、彼らにあやかり二つの赤備えが生まれることになります。徳川最強部隊である『井伊の赤備え』と、真田率いる『真田の赤備え』です。彼らの部隊も、共に最強部隊の名に恥じない活躍を見せます。 ------------特殊攻城部隊------------ 武田の強さは攻城戦でも発揮されます。金堀衆と呼ばれる坑道労働者を工兵として引き連れる武田信玄は、短期間で電撃攻城を行うという離れ業を見せます。 金堀衆は土や岩を掘ることが巧みで、大地を知り尽くしています。包囲戦に際し、彼らは水の手を破壊することで城内への水の補給を立ち、兵糧攻めでは考えられない速さで無血開城を成功させます。 信玄提など、土木工事力の優秀さを戦場でも活かすあたり、豊臣秀吉の土木攻城の走りとでも言ったところでしょうか。 ------------武田名物・きつつき戦法------------ 攻城が苦手なわけではありませんが、やはり武田家の真骨頂は野戦です。そのため、信玄は敵を野戦に引き込むことを好み、敵を城や拠点からおびき出して野戦を強いるような戦略・戦術を多用しました。それが『きつつき戦法』です。 敵を挑発・牽制し拠点からおびき出し、それを野戦で撃滅するという戦術で、武田家はあらゆる場面でこれを多様しますが、最後はこれを逆用されて滅びます。 主な戦いとしては、三方ヶ原の戦いでの家康を城からおびき出し、川中島の戦いでは上杉謙信を拠点である山から下山させ、三増峠の戦いでは滝山城に篭っていた北条氏邦をひっぱり出します。 上杉謙信相手の時こそ裏をかかれて大損害を出しますが、徳川・北条は見事に誘い出されて敗北しています。自分の得意とするフィールドでの勝負を挑むことこそ、きつつき戦法の真骨頂と言えるでしょう。 しかし、武田家の衰退を決める戦いにおいて、武田家はお家芸を敵にマネされます。徳川の迂回機動作戦により退路を断たれた武田勝頼は織田軍の野戦築城に挑み、敗れます。見事に誘い出しを受け、撃破された形です。 武田信玄の死後、きつつき戦法、もしくは類似戦術は徳川に継承され、長篠、関ヶ原、大阪において野戦の勝利に大きな貢献をすることになりました。 ------------戦術機動による片翼包囲------------ 武田の戦術として多様されるのが別動隊による片翼包囲戦術です。片翼包囲とは正面きってぶつかり合っている敵の側面に別動隊を送り込み、片方の側面から包囲機動を行う戦術です。 武田軍はけっこうな頻度で別動隊を操っています。川中島では上杉軍を山から下ろすために挑発部隊を送り込み、三増峠では側面から北条軍を叩いています。 ちなみに、この迂回機動を行ったのは両方とも山県さんの赤備えであり、精鋭部隊に側面機動させることが多かったようです。 この戦術は長篠の戦いでも用いられますが、それは悲しいことに失敗例としてでした。武田、織田両軍は自分から仕掛ける不利を知っていたために、お互いに別動隊を敵側面に派遣します。 この時の派遣部隊は武田が五百、織田が三千。さらに、織田はこの部隊に五百の鉄砲を持たせていました。結果、武田の迂回は失敗し、織田は成功。武田のみが退路を断たれる形になります。 別動隊を迂回させ、側面を打撃させるという戦術は小学生でも思いつく戦術の基本ですが、思考と実行には大きな差があります。 川中島では別動隊の数を一万二千と多くしすぎたあまりに本体が蹂躙され、長篠では別動隊が五百と少なすぎたために大失敗しています。 口で言うほど簡単ではないこの戦術を使いこなすのは、最強と知られる武田軍にとっても容易ではなかったということです。 ------------信玄個人の戦術能力------------ 正直、配下が有能すぎて信玄個人の戦術能力を推し量るのがなかなか難しいです。信玄が見せる武田家の戦術の多くが部下の献策であり、快進撃の多くの部分が有能な部下の功績だったりします。 きつつき戦法は山本勘助のものですし、赤備えの活躍は部下のもの。信玄はどちらかというと将の将。名将たちを的確に指示して動かす力に長けていたと言ったところでしょうか。 実は、信玄は戦術能力より戦略・外交に優れ、三国同盟をはじめとした数々の同盟を構築し、それを的確なタイミングで破ることで勢力拡張を可能にしました。 戦術能力において自身の上を行く村上義清に対しても戦術でかなわないと観るや、真田幸隆の知略を活用し、戦略と外交で村上義清を信濃から駆逐しています。 自分の力に頼らず、部下の力を自身の者にすることができる能力こそ、信玄の真骨頂であったかもしれません。きしくも、それはライバルである上杉謙信と正反対の才能でした。 ------------武田の弱点------------ 一見、無敵に見える武田家ですが、実は大きな弱点を抱えていました。まず、君主の立場の弱さです。部下の将軍を寄せ集めて戦う封建軍であるために、どうしても結束に問題があります。 これを打破しようと独裁を図ったのが信虎でしたが、息子である信玄はこれを駆逐。武田は織田家や徳川と違い、君主の独裁力が比較的弱くなってしまいます。信玄存命時は信玄のカリスマでごまかしていましたが、息子の代でそれがあらわになりました。 信玄の後継者である勝頼は、もともと滅ぼした諏訪家に養子に出していて諏訪家の君主にする予定でした。しかし、信玄が長男を殺害すると、代わりに後継者となったのです。ですが、武田本家から見ると勝頼は諏訪家の人間であり、求心力に欠けていたきらいがありました。 これは長篠における大敗北の一因となり、長篠後に武田が一気に衰退する原因になります。 次に外交面です。弱肉強食を体現する信玄の外交方針は同盟を結ぶ相手でも弱体化した瞬間に裏切り、征服するという行動を繰り返します。結果、武田との同盟はあまりにも希薄であり、信用がありません。長篠敗北後の勝頼が、そのツケを払う形になりました。 最後に、旧式の軍事制度です。動員する兵士たちは農兵と地侍の組み合わせ方式で、中世的制度からの脱却はありませんでした。鉄砲の装備比率も並であり、長篠では3000対500と明らかに数の面で敗北しています。 彼らの無敵ぶりは雑兵を強兵に変える鉄砲の登場までという期間限定のものでした。これは、逆に鉄砲があるからこそ無敵を誇った島津と正反対であったと言えるでしょう。 ------------武田家戦闘教義の総括------------ いい意味でも悪い意味でも、武田は中世的な軍隊でした。土地の結びつきが強い兵たちは非常に勇敢で力強く、数々の勝利を武田にもたらしました。 近代化の努力も一応はしており、500の鉄砲を確保するなどの努力も見せましたが、やはり近代化の雄である信長の物量と新戦術である野戦築城に敗れ去ります。 しかし、歴史上唯一徳川家康に泥をつけた軍隊でもあり、その強さは神格化され今に伝わります。徳川家康にとって軍事の師でもある武田家の戦闘教義は、徳川の天下統一に多大な貢献をすることになるのでした。 次に進む 前に戻る |