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今川家の戦闘教義


東日本において最強クラスの戦国大名として恐れられた今川家の今川義元は、朝倉家最強の名将である朝倉宗滴から手本にすべき優秀な武士の一人としてその著書で名前を特筆されるほどの存在でした。では、今川家の戦闘教義、戦術と軍隊を見てみましょう。



『戦術面』
戦略挟撃
釣野伏せ


『軍隊面』
水軍活用


大軍を率いながら二十分の一以下の織田軍に蹴散らされたために不当に評価が低い今川家ですが、その実力はかなりのものでした。実際のところ、今川家の真骨頂は戦術面ではなく戦略面でありましたが、決して戦術面で無能であったわけではありません。では、見ていきましょう。



------------今川家の軍隊------------

今川家の軍隊はいわゆる、戦国時代の平均的な軍隊でした。一領具足のように発展した半農武士を率いたわけでもなく、常備傭兵制を導入したわけでもありません。ですが、海運に恵まれた地域にいたため、比較的鉄砲などの武装に恵まれていたのではないかと思われます。

今川家に特徴的なのは水軍の存在です。今川家における最強武将である太原雪斎の母親方一族は海賊とも水軍ともつかない者たちを完全に掌握しており、それが貿易や戦争において大きな力となったことは想像に難くありません。

内陸部での戦闘が多いために戦国時代の水軍はあまり目立ちませんが、重量のある物を運ぶ際に船が見せる運搬力は非常にすさまじいものがあり、兵糧や人員輸送の面で、今川水軍は大きな役割を果たしたことでしょう。



------------巧みな戦略戦術------------

今川家は外交が巧みな国であり、今川義元は外交の成功によってその領域の拡張を成し遂げました。これは敵に学ぶ姿勢を見せた義元の柔軟さから来たものです。そして、それは『戦略挟撃』と呼ばれる外交戦術でした。

東国において北条氏と対立する今川義元は北条と戦うために軍勢を出します。しかし、北条は外交により義元本国の部下を寝返らせ、戦略的に義元を挟み撃ちにしました。この戦いで、義元は領土の一部を失います。第1次河東一乱と呼ばれる戦いです。

しかし、第2次河東一乱において、義元は優れた戦国大名としての資質を見せ付けます。占拠されたままの河東を奪回すべく、外交において攻勢をかけました。

まず、武田信玄と同盟を結び信玄を出陣させ、義元は信玄と合流し、連合軍を結成します。さらに、北条家の後方に位置する山内上杉家を動かすことに成功。八万の反北条連合軍が北条の後方で動き始めます。八万の軍隊は北条方の城を包囲。包囲された河越城には北条綱成率いる三千の兵が八万を押しとどめていました。

北条氏康はこの瞬間、外交戦での大敗北を悟ります。北条は奪った領地の大半を失いながら今川と和睦。今川の脅威を外交で解決した氏康は八千の兵を率いて河越城救援に向かい、そして八万の兵を撃破する快挙を成し遂げます。

河越城を救援した氏康でしたが、義元の外交能力を恐れ、敵対関係を改めることにします。結局、氏康は義元を敵にするよりは味方にしたほうが賢いと考え、武田・今川・北条による甲相駿三国同盟を結ぶことに決めました。

卓越した外交戦術により、義元は戦場で普通の武将が得る以上の結果を手にしました。後顧の憂いをなくした義元は、ようやく西部戦線における織田氏との戦いに本腰を入れられるようになったのです。



------------名将の証明------------

戦術面における今川家の力が最も発揮されたのは、織田信長の父である織田信秀を撃破した小豆坂の戦いでした。この戦いで、今川家は巧みな計略により信秀の軍団に大打撃を与えます。

小豆坂において、一万の今川軍は四千の織田軍と激突します。この時、今川軍は坂の上に布陣し、圧倒的優位でした。しかし、織田軍の信広隊は劣勢を悟り、無理をせずに部隊を後方に下げます。そして、本隊の信秀隊と合流しました。

勝機を見出した今川軍は坂を下りて追撃に入りますが、それは信秀の計略でした。坂を降り、優位を失った今川軍は織田軍の奮戦により、松平隊が崩され敗色濃厚になります。

勢いづいた織田軍は崩れる今川軍に猛攻をしかけますが、それは今川の計略でした。今川方は伏兵を配置しており、勢いに乗って攻撃する織田方に横槍を入れます。織田軍は総崩れとなり川向こうまで敗走します。

今川軍がこの戦いで使用したこの計略は釣り野伏せと呼ばれる伏撃戦術です。崩れた松平隊を囮とし、伏兵が織田に不意打ちを決めることで、勝負の流れを決定付けました。今川家の戦術能力が決して並でないことの証明であると言えるでしょう。



------------悲劇の桶狭間------------

織田家を三河から駆逐し、三国の主となった今川義元はいまや東日本最大の大名でした。四万五千を号する大軍を単独で編制できた家はこの時代に今川義元のみであり、日本全国を見ても最強の動員力を誇っていたのです(人海戦術を得意とする一揆勢力を除く)。天下に一番近かった男という異名は伊達ではありません。

この大軍勢を率い、周囲を同盟国で囲んで後顧の憂いのない義元は、尾張の半分をすでに制圧していました。未だに抵抗を続ける織田家を黙らせるべく、義元は四万に近い大軍で尾張に侵攻を開始します。

圧倒的な兵力を持つ義元は兵力を分散させ、各地の城を落としながら進みました。織田方の砦や城は次々と陥落。さらに、織田の小部隊が今川軍を襲撃しましたが、これをひねりつぶし、義元は得意の絶頂にいました。

しかし、この時の今川軍本隊は五千にまで数を減らしていました。各地の城を攻略すべく軍隊を派遣しすぎていたからです。しかし、義元も油断はしていません。標高の低い山の上に陣を置き、敵の襲撃に備えていたのです。もし、織田が攻めてきても小豆坂の再現となるはずでした。

しかし、信長はその思考の上を行きます。神速を武器にする織田軍は二千の兵を高速で動かし、今川本隊を攻撃できる位置に潜んでいたのです。小雨が降り始めたのを見た信長はこれを天恵として迂回(迂回説、正面攻撃説も有り)、雨がやんだタイミングをついて本隊に攻撃を仕掛けます。

予想外の方向から攻撃された今川軍は織田の攻撃に対応しきれませんでした。五千対二千という数の優位も生かせず、三十の兵に守られながらも逃げ切れず、義元は討ち死してしまいます。

この戦い、もし小豆坂で信秀を釣り野伏せで破った太原雪斎がいれば敗北はなかっただろうと言われています。名将の損失は亡国のきざしであり、ある意味では正しい事実であったのかもしれません。

義元の戦術的な失敗は兵力を分散させすぎたこと、そして異常な速さで軍を移動させる信長の行軍速度を見誤っていたことでした。戦略の天才は、戦術によるミスによって、全ての物を失ってしまったのです。



------------今川家戦闘教義の総括------------

全国的に見ても平均的な軍隊を持ち、優秀な水軍を保有していた今川家はいわゆる普通に強い軍隊と言ったところでしょうか。目立つところも悪いところもあまりありません。せいぜい、動員体勢が旧式だというくらいでしょう。

それでも今川家は肥沃な大地を領土とし、一時は最強勢力をもつ戦国大名として日本中にその名を知られていました。その躍進を支えた今川家が弱いはずがありません。

一説では、徳川家康が人質時代に今川家最強軍師である太原雪斎から戦術や戦略の教えを受けたという説があります。家康を今川家の武将として抱え込もうとしていた義元の考えを想定するなら、決してありえない話ではありません。

武田家のみならず、今川家の戦闘教義もまた、徳川家に対して大きな影響を与えていました。戦国時代に終焉をもたらす原動力を与えた戦闘教義として、駿河流軍学は日本史に大きな意味を持つものであったと言えるでしょう。



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