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鈴木家の戦闘教義 |
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戦国時代でもかなり異質な勢力を誇ったのが鈴木家です。貿易港である堺に近い彼らは大量の鉄砲を手に、幾多の戦場に傭兵として参加します。戦国大名の中でもかなり異質な存在と言えるでしょう。では、鈴木家の戦闘教義、戦術と軍隊を見てみましょう。 『戦術面』 鉄砲交換射撃 『軍隊面』 常備傭兵制 鉄砲重視 最新兵器の鉄砲を操る傭兵集団を率いる彼らは非常に有名な存在でした。鈴木家率いる雑賀衆は特に有名で、『雑賀衆が味方に付いた軍は勝ち、敵にした軍は負ける』とまで言われるほどでした。では、見ていきましょう。 ------------近世的傭兵制度------------ 鈴木家率いる雑賀衆の最大の特徴は傭兵部隊であるというところです。時代は農繁期に戦えない農兵や半農武士ではなく、一年中いつでも戦闘可能な職業戦士を求めていました。ヨーロッパではとっくの昔に部隊の大半は傭兵制に依存しており、傭兵隊長と契約して各国は兵力を確保していました。 傭兵制は非常に利点の多い制度です。まず、職業戦士であるために一年中戦闘可能で、戦う時期や時間の制約がありません。「畑が心配だから、オラァ国さ帰りてぇだ」と言い出す部下が現れないことは、指揮官にとってどれほどありがたいことでしょうか。 とはいえ、実際には兵士全てを傭兵にすることは不可能です。特に、高等技術である騎乗が必要な騎馬武者は傭兵でごまかすのは難しいでしょう。しかし、半農でない騎馬武者なら職業戦士であるために一年中戦い続けられます。時間の制約がないことが、戦争においていかに重要かはお分かりいただけると思います。 さらに、傭兵には大きな利点があります。軍隊は抱えておくと常に維持費がかかります。給料を払う必要があるからです。しかし、職業戦士は物資をバカ食いするだけで何も生み出しません。はっきり言って平時は邪魔な存在です。 戦時は兵力が大量に欲しいけど、普段はいらない。そう考える君主にとって、傭兵は貴重な制度でした。戦闘時は金を奮発することで自分の限界を超えた数の兵を集めることが出来、戦争が終わり次第解雇すれば負担はありません。お手軽なシステムです。 以上の二点が傭兵の大きな特徴でしょう。通常の戦国大名が旧式制度である農兵と半農武士を使うのはコストに問題があったからです。普段から農業をさせておくことでコストを低下させ、必要な時だけ兵士にすれば低リスクで大兵力を確保できます。代償は戦いにおける時間制限のみです。 さて、いいとこ尽くしのように見える傭兵制度ですが、じつは大きな弱点があります。兵士の弱さです。土地の結びつきがない傭兵にとって、戦争という事業は他人事です。ですので、金が欲しくて傭兵をしている彼らは死を賭して戦おうという危害がありません。 それに比べて農兵や半農武士は土地のために戦います。地域との結びつきが強く、仲間を守るためなら命をかけます。結果、まともにぶつかり合ったばあい、傭兵は非常に弱いのです。すぐに逃げます。敵も傭兵の場合、下手をすると八百長試合を始めて給料泥棒になります。 さらに、傭兵になったりやめたりを繰り返し、移動も激しいために錬度に問題があります。個々では強くても集団行動が苦手なのです。常に周りの人間が変わるので、覚えても活かしきれないというところでしょう。 加えて、下手に戦乱が続くと常時雇いの常備軍と変わらないために金がかかりすぎるという点です。そのため、近代的な傭兵軍を常に維持するには莫大な金銭が必要です。当時世界最強国のスペインも軍隊維持のために幾度か破産宣言を繰り返しています。 それでも、傭兵というシステムは便利なので使われ続けました。このしょうもない傭兵中心軍隊に対し、西欧の軍事理論家であるマキャベリは徹底的に苦言の言葉を残しています。地元から兵を徴集する国民軍こそ最強であると言ってはばかりませんでした。さて、事実なのでしょうか? 間違いなく事実です。実際、半農武士で構成される徳川・武田・上杉などの兵は精強で知られ、傭兵中心の織田兵は弱兵で有名です。結局、この傭兵の長所と半農の長所、強さと値段と戦闘可能時間の折り合いがつくにはフランス革命によって生まれた徴兵制の登場を待たなければなりませんでした。 しかし、一時しのぎ的な方法ですが、傭兵に一定の帰属意識を持たせ、その錬度と忠誠心を底上げする方法もあります。それは、傭兵軍による常備軍を作ることです。一時雇いではなく、常に雇用し続けると、傭兵たちは安定した生活を提供する君主に忠誠を誓うことになります。 そして、悪評がたてば解雇されるため、比較的必死に戦うようになります。周囲の人間が入れ替わりにくく、自分も一箇所にいるので錬度が高まり、集団行動も上手になっていきます。 悪名高き傭兵制がはびこる西欧でこれを実施したのはオランダのマウリッツです。何度も名前が出てくるあたり、よほど重要な軍事改革者ですね、この人。実際、戦国時代と同時期に生きているので、この人から学ぶところは非常に多いです。 マウリッツは兵に複雑な機動をさせるために傭兵による常備軍を設立し、幾度と国家財政を破綻させながらも傭兵を解雇せず、雇い続けました。結果、オランダは当時の欧州最精鋭の軍を持つ国家となります。 ただし、周辺国家は未だに非常備的な傭兵軍でした。そして陣形は、その威力に対して訓練の容易なテルシオであり、この傾向は三十年戦争まで変わりません。 これを変えたのはマウリッツの後継者、グスタフ・アドルフです。北方の貧しい大地であるスウェーデンは人の往来が少なく傭兵が少ないという環境にありました。そこで、地元から兵士を徴集するという中世的な手段で対抗します。 彼らは常備軍となりますが、戦場ははるか遠いドイツなので「農繁期だから帰らないと」などと言ってはいられません。結果としてグスタフの軍は時間制限のない半農軍であり、その錬度はマウリッツを超えています。 さて、視線を日本に戻します。日本ではどうだったかというと、自動的にマウリッツ型の傭兵常備軍制度が主流でした。傭兵を最も活用したのが信長であり、敵が多すぎて常に大軍を保有している必要があったことから、大規模な解雇などできるわけがなかったのです。 対し、他の各家ではそんなことはありません。戦闘時の助太刀として武装勢力に一時的な助けを求めることがありました。雑賀衆はそのような傭兵部隊の一つです。 助太刀であるために忠誠心は低いですが、雑賀衆は異様な強さを発揮しました。貿易港である堺に近いため鉄砲と火薬の確保が容易であり、鉄砲傭兵隊として各地を渡り歩くことができたからです。 彼らの特徴は、普通の傭兵隊に比べて多く鉄砲を持っているから強い程度のものでした。しかし、本願寺に常備雇いされることでその傾向は変化します。宗教的な結びつきに加え、生活の保障まであるために雑賀衆は本願寺においてなくてはならない最強部隊となりました。 彼らの助力により、本願寺は長きにわたる織田信長との抗争を戦い抜きます。中でも、本願寺には大阪左右の将と呼ばれる重要指揮官が二人おり、そのうちの一人が雑賀衆の長、鈴木重秀を本名とする雑賀孫一でした。この事実だけでも雑賀衆がいかに本願寺において重要だったかがわかります。 こうして、本願寺は織田家と同様に従来の旧制度部隊のほかに、近世的傭兵部隊を、しかも常備軍と言う形で雇い入れることになりました。時期を問わず戦い続けられる彼らがいたからこそ、一年中戦闘可能な織田軍に対し、一歩も引かずに戦い続けることが出来たのでしょう。 ------------鉄砲重視の戦術------------ 大量の鉄砲を手に出来る位置に存在したことから、雑賀衆は最初期から鉄砲を積極活用した部隊として知られます。彼らの鉄砲使用は卓越しており、それは時代の先を行く鉄砲運用になりました。その名も、『鉄砲交換射撃』です。 三十秒に一発しか撃てない鉄砲は、その発射速度が最大の弱点でした。その間隔を埋めるには交代で射撃するか、分業制を取るしかありません。雑賀集交代制を採用し、射撃速度を向上させました。 鉄砲部隊を作る際、鉄砲の射撃役と装填役を分け、片方が装填している間にもう片方が射撃するという戦術です。雑賀は通常の倍速で鉄砲を射撃したらしく、これは『二段撃ち』という戦術だったそうです。後に信長がこれから学び三段撃ちを生み出したといいますが、怪しいところですね。 ですが、実際に鉄砲交代・交換射撃は悪いことではありません。野戦においても交代射撃は移動しながら攻撃するという攻撃的な戦術ですし、弱点を補う発想は間違っていないのです。 事実、お隣の中国では古くから弓と機械仕掛けの弓である弩を組み合わせた戦術、および弩の交代射撃や交換射撃をしていた形跡があるので、別に新戦術でもなんでもありません。 ただ、昔からの戦術を雑賀衆は応用していたというだけの話。しかし、それは戦国の世で大きな意味を持つ行為だったのです。 ------------鈴木家戦闘教義の総括------------ 傭兵部隊を率いた鈴木家は必然的に近代的傭兵制度で軍隊を構成され、大量の鉄砲を持っていたことから当時最先端の軍隊の一つでした。その戦闘教義は卓越しており、織田家の軍勢に対して最後まで戦いぬけたのはそれがためと考えられます。 しかし、戦の中でしか生きられない傭兵部隊は安定した時代を生きる権力者にとって邪魔なものであり、後に雑賀・根来といった鉄砲傭兵隊はその本拠地を破壊され、滅亡することになります。 一説ではこの鉄砲戦術を、雑賀を失った孫一さんがひっそりと伊達家に持ち運び、伊達氏に伝えることで伊達家の鉄砲技術が向上し、騎馬鉄砲隊に伝わったと言います。 実際そうではなくても、関ヶ原において孫一は敵武将を討ち取る武功もあげているため、鉄砲傭兵隊全てが消滅したわけではなかったのでしょう。 武田家が徳川家に大きな影響を与えたように、鈴木家の雑賀衆もまた織田家に大きな影響を与えました。織田・豊臣による天下統一は、雑賀の戦闘教義が大きく影響しているように私には思われます。 次に進む 前に戻る |