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戦国時代における戦争のアマチュア化


人と人が争う際に重要とされる要素は多くあります。武器の質、戦術、指揮、将軍の能力と様々です。しかし、多くの戦いにおいては武器の質が致命的に違うことは少なく、将軍の指揮能力と兵士たちの精神力で覆せないことはありません。特に重要とされたのは兵士の数でした。

戦国時代における戦争のアマチュア化

戦いは数で決まります。鉄、火薬、馬を持たないアメリカ原住民をボコボコにしたスペイン軍は百分の一以下の戦力で勝利していますが、このような戦いは戦史の中でも記述は少なく、比較的例外的に扱われます。基本的に、戦争は文明レベルの近い国同士で行われます。

そうなると、重要になってくるのは数です。多くの勢力は動員力を上げて大量の兵士を戦場に配置できるように努力します。数を集めただけでは意味がありません。一万人の赤ん坊は一人の成人男性に勝利できないでしょう。つまり、戦うためには最低限の質が存在していなくてはなりません。

そのため、国に存在している人間全てを戦力にすることはできませんでした。十に満たない子供は言うに及びませんが、非力な女性も基本的には使えません。しかし、成人男性も戦うための訓練をしているわけではないので、戦力的には結構微妙な存在となります。

騎兵が主力となる時代は、この傾向は顕著でした。馬が引く戦車は貴族でなければ戦闘訓練どころか所持さえできません。騎兵が中心となる中世の戦いも、武士や騎士といった特権階級がその財力で保持する騎馬隊が勝負を決しました。つまり、数も大切ですが、質が伴わなければ意味がなかったのですね。

歩兵が主力となる時代だと、もう少し事情が違いました。古代においては盾を並べ、槍を手にした下層階級の人々の作る陣形が戦車や騎馬を跳ね除けました。中世においてすら、規律正しく陣形を維持する歩兵部隊を騎兵が突き崩すことなど不可能だったのです。

このように、戦場では戦争のプロとアマチュアが入り混じって戦っていました。馬に乗るプロの軍人と、自分の足で戦うアマチュアの平民といった具合です。プロの軍人は主に貴族であり、数少ない特権階級であったことから質は十分でも数が揃えにくいです。逆に歩兵はアマチュアの平民でしたが、多数いる低所得層なので、数は十分揃いました。

つまり、この二種類の兵力をバランスよく動員し、軍隊を構築する必要があったのです。歩兵が強い時代は歩兵を多めに、騎兵が強い時代は騎兵を多めに動員しました。その結果として、中世の戦闘は動員力の少ないショボいものになりがちです。中世の西欧においては、この傾向が特に顕著でした。

以上のことからわかることは、数は大切ですが、質の伴わない数というのは意味がないということです。そのため、歴史上多くの為政者は質の伴う兵の大動員を望みましたが、それは必ずしも成し遂げられるわけではありませんでした。それでも、多くの努力を払ってきたことがわかります。一つずつ確認していきましょう。



------------古代の兵力動員------------

まず、戦車が主力となる古代前期を見ていきましょう。この時期は戦車の数が勝負を決めたため、国家は貴族たちに土地を与え、その収入で馬と戦車を用意させ、戦争に備えさせました。古代中国においては国の大きさを表すのに乗という言葉を使いました。これは戦車の単位です。

強国は千乗の国、万乗の国と呼ばれました。戦車を千台、万台動員できたということです。このように、内外において戦車の動員力ことが重要とされていました。このように、古代前期においては戦車に乗るプロの軍人、貴族をいかに動員するかで国家の命運は決したのです。

次に古代後期です。戦車の突撃を歩兵が止められると理解した為政者は、動員の容易な歩兵を部隊の中心に据えることに決定します。アマチュア連中を大量動員するのは比較的たやすく、戦争の規模は一気に大きくなりました。古代中国においては十万、二十万の動員が頻繁に見られるようになります。

古代の歩兵は盾と槍、そして貧相な鎧を与えるだけで立派な戦力になりました。つまり、戦争のアマチュア化が起こったのです。金のかかった戦車に安上がりな歩兵が勝利できるなら、そちらを使いたいというのは人情というものだったのでしょう。



------------中世の兵力動員------------

しかし、中世に時代が移るにしたがって、戦場は騎兵が支配するようになり、歩兵の地位が下落します。すると、戦場は再びプロのものとなります。しかし、それでも為政者は安上がりな歩兵で騎兵に対抗したいと考えました。この思考法は中国において強く、中国はある特徴的な兵器を積極的に使います。それが弩と呼ばれる武器でした。

弓は遠距離から敵を撃破することのできる兵器ですが、技術的に使用の難しい武器であり、訓練に数年を必要としました。生活のための労働で手一杯の庶民が体得できる技術ではありません。そこで、登場したのが弩です。

機械仕掛けの弓である弩は、拳銃と弓が合体したような形をしています。横にした弓を銃のような台座に取り付けます。弦を引き、それを突起部に固定したあと、矢を台の上に置きます。あとは引き金を引けば弦が突起部から解き放たれ、矢を射出します。

通常の弓は弦を引き動作と狙いをつける動作を同時にやる必要があり、これの体得は生半可なものではありませんでした。さらに弓は曲射兵器であるために、落下地点を予測して射出する必要があります。

それに対して、弩は弦を引くのと狙いを付けるのを別の動作で行います。狙いのつけ方も敵に矢の先を向けて引き金を絞ると、矢は比較的まっすぐ飛んでいきます。つまり、敵との距離に合わせて引き絞る力を調整するという技術がいらないのですね。これは簡単です。

中国歴代王朝は大量動員した歩兵にこの弩を装備させ、戦力を大きく増強させました。西欧でもクロスボウの名でこの兵器は使われ続けました。戦争のアマチュア化を企んだわけですね。中国ではこの弩を古代から用いており、中世がその使用における全盛期であったと言えるでしょう。

しかし、この試みは一定の成功を収めるに終わりました。中世という時代は騎兵の支配する時代であり、歩兵の役割がそもそも補助兵科だったからです。その上、弩には大きな弱点がありました。通常の弓が六秒に一度矢を放てたのに対し、弩は二十秒から一分を必要としたのです。

その代わり、弩は重装騎兵の鎧を貫通する威力を持っていました。弓でも可能ですが、威力では弩が上回っていたのです。しかし、使い勝手の良さから戦場は弩よりも弓を優秀な武器として認定します。西洋において、イギリスは弩よりも弓を積極的に用い、その威力で数々の勝利をあげていきました。弩をメインで用いるフランスは幾度も惨敗を喫したのです。

イギリスの弓であるロングボウは訓練に大きな時間を必要としましたが、戦場での効果は抜群でした。維持費は騎兵ほどではないにしろ、イギリスの歴代王朝は平民にロングボウの訓練をさせるために多くの努力を払ことになります。戦いに際してクロスボウを配布し、少しだけ訓練を施して弓兵を戦場につれていくフランスとは大違いでした。

つまり、中世においては歩兵でさえもセミプロ扱いを強いられた者の方が強かったわけですね。アマチュア中心の弩兵では弓兵に劣ったのでした。しかし、歩兵の復権は意外な方向からやってきます。それは、パイクと言う名の兵器でした。

パイクというのは他の記事でさんざん紹介してきた、足軽の持つ長柄槍の親戚です。たいした訓練を施されていたない平民がこれを持って築いた陣形は、騎兵が簡単に崩すことのできないものだったのです。



------------近世の兵力動員------------

パイクの登場により、歩兵の戦場における価値が一気に高まりました。しかし、歩兵への追い風はまだ止まりません。さらに、火縄銃が歴史に姿を現すからです。ロングボウを超える威力と効果を持つこの兵器は、たちどころに歩兵最強の武器になりました。

火縄銃は訓練の容易さという意味では弩を超える存在でした。弩を発射するには弦を引き上げる必要がありますが、この時に出せる力で弩の威力は決定していたのです。そのため、成人男性以外では使いこなすことが難しかったのです。

それに対し、火縄銃は引き金を引くだけで鉄板を貫通する弾丸が飛び出します。銃を支える筋力と、爆発に耐える体格さえあれば誰もが用いることができたのです。火縄銃の登場により、戦場のアマチュア化が一気に進むことになります。

火縄銃は子供や老人、そして女性にさえ戦う力を与えました。戦場はアマチュアである平民が名実ともに占める空間となります。特権階級である武士は指揮を行い、質の高さと馬術を活かして多くの武功を立てました。しかし、戦線を構築し、その行く末を決したのは平民を中核とする足軽であったのです。



------------戦国時代における戦例------------

戦争のアマチュア化という観点で、特に参考になる戦いに鶴崎の戦いと呼ばれるものがあります。島津による九州統一戦争に抵抗した九州の女武将、妙林尼が指揮した戦いです。迫る島津の軍勢三千。それに対して、妙林尼のこもる鶴崎城には女子供と老人、さらに周辺に住む農民しか兵力が残っていませんでした。

これは本来の城主が主力を率いて別の城に篭城していたためであり、通常なら降伏しかありえない状況でした。しかし、妙林尼は交戦を決意します。あろうことか、籠城するのではなく野戦で迎え撃つ決断をしたのです。

大野川と乙津川のあいだに存在する細い空間に落とし穴をはじめとする野戦築城を構築した妙林尼は、老人と女子供、そして適当に集めた百姓たちに鉄砲を持たせ、九州統一に燃える島津軍を迎撃します。

教科書に載せたいほど好条件の地形での迎撃戦でしたが、敵は勢いに乗る島津軍。脆弱な抵抗勢力を押しつぶすべく、一気に攻撃を仕掛けます。しかし、妙林尼に指揮される弱小部隊は野戦築城の効果と鉄砲の威力に支えられ、この攻撃を撃退します。

島津軍による突撃は十六度に及びましたが、妙林尼はこの全てを撃退。初戦を勝利で終わらせた妙林尼は、そのまま鶴崎城に篭城します。最終的には食糧不足で開城するのですが、妙林尼の凄まじさはここからでした。

開城に際して島津軍の将兵を手厚くもてなした妙林尼は秀吉の九州征伐がはじまると、島津に降った自分たちは罰せられるに違いないので、島津軍に加えて欲しいと懇願します。これを信じた島津軍はゆっくりと行軍、後からやってくる妙林尼の部隊を待ちます。

しかし、これは妙林尼の策略でした。油断しきっている島津軍に対し、妙林尼は寺司浜において奇襲をしかけ、幾多の武将首をあげます。このように、妙林尼は女武将ながら優れた戦術能力と策略によって九州最強勢力である島津を翻弄、撃破するに至るのです。

それを支えたのは、間違いなく火縄銃でした。女子供や老人を戦力に変える火縄銃は、戦争のアマチュア化を見事引き起こしてみせたのです。長柄槍も革新的な兵器でしたが、火縄銃ほどの影響力を持たなかったのはこの辺りが原因でしょう。

戦国時代の後は、戦争はアマチュア化の一途を辿り続けました。十八世紀にはほぼ全ての歩兵がマスケット銃を手に携え、高級な兵器であるはずの戦車ですら素人が乗って戦果をあげるということが第二次世界大戦でもありました。

火薬の登場が、戦争のアマチュア化を引き起こすことに成功したのです。以後の戦いは、大量動員された素人を中心にして行われるようになっていきます。そして、その開始地点こそが、日本では戦国時代であったわけです。




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