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竹中家の戦闘教義


はじめは斉藤家に仕え、次に秀吉に仕えるようになった竹中半兵衛に率いられた竹中家は、今まで紹介した武家の中でもかなり浮いています。弱小すぎる上に独立勢力ではなく知名度も低い。有名じゃない真田とでも言ったところでしょうか。しかし、独自の戦闘教義を持つので一応紹介したいと思います。


『戦術面』
伏兵戦術

『軍隊面』
傭兵常備軍



軍師、今孔明との異名で知られる彼は智謀型の武将と思われがちですが、その戦術能力は高く、少数を率いたときの戦術能力はかなりのものがあります。ただ、直接戦闘が得意だったわけではなく、敵の奇を突く戦術を好んだようです。では、見ていきましょう。



------------伏撃の名手------------

どちらかというと竹中家の傾向というよりは半兵衛の得意技ですが、半兵衛は兵を伏せ、敵を奇襲する戦術を得意としたようです。

生涯に、彼が指揮する顕著な戦いは二つですが、その二つともが伏せた兵を最大限に活用しています。真偽はともかくとして、とりあえず確認だけはしておきましょう。



------------中国の故事に学ぶ------------

織田と斉藤がぶつかり合いをしていたとき、半兵衛は兵を率いて織田を攻撃し、大損害を与えかけました。そして、その計略は彼オリジナルのものではなく、中国で使用されたものです。その名を、『十面埋伏の計』と言いました。

十面埋伏とは、格好をつけているだけで伏兵を操るだけの戦術です。ただ、少し特殊なのが全兵士を伏兵にするという待ち伏せ戦術というあたりです。全軍を十に分け、それを十箇所に配置し、敵を包囲殲滅するという計略でした。

古くは漢の劉邦が楚の項羽軍に対して用い、三国時代では曹操が用いたことで有名とされます。倉亭の戦いにおいて、程cの進言によって行われたものです。この時の戦闘は釣り野伏せに近い展開を見せ、黄河を背にして後退し袁紹軍を引き込むと、伏兵で取り囲んで壊滅させました。

半兵衛が信長と戦った時は違う展開を見せました。彼は全軍を伏兵とし、敵軍が一旦通り過ぎた後、背面の兵を後ろから奇襲させました。そして、残りの九面、つまり全方位から襲い掛かり、織田軍を全周包囲します。

必勝の体勢を築きあげたに見えた半兵衛でしたが、この作戦は失敗します。なんと、織田軍には別働隊として少数の兵力を率いる秀吉がいたのです。秀吉は援護しに行っても兵力が少なすぎるためにかなわないと考え、その場で鳴り物を打ち鳴らし、まるで大軍が援護に来たように見せかけます。

驚いた半兵衛は囲みを解き、唖然とする織田軍を放置して撤退してしまいました。結局、失敗はしていますが、全周包囲を完成させた点は褒めるべきでしょう。



------------奇跡の奇襲攻城------------

半兵衛を語るに際し、忘れてはいけないのが稲葉山城乗っ取りです。わずか十六の兵を率い、半兵衛は主君を城から追放し、一城の主となります。

このクーデターに際し、半兵衛は慎重に兵士を城の中に潜ませ、武具を運び奇襲的に攻城を成功させます。城の中にあって兵を伏せさせる技量は、織田家との戦いで見せた伏撃の巧みさを彷彿とさせます。

このクーデターで八ヶ月の篭城を決め込んだ半兵衛は、後に城を主君に返還し、仕事を全て弟に押し付けると、引きこもりのニートとなります。彼が歴史の表舞台に姿を現し、秀吉の参謀として活躍するのはその後のことです。



------------近代的な常備傭兵制度------------

明記している資料はありませんが、竹中家の軍隊は傭兵が主なものであったと考えられます。根拠は常備傭兵軍を積極活用する織田家の武将である秀吉に仕えていた事実です。

おそらく、秀吉も半兵衛も傭兵を率いて戦ったことでしょう。ちなみに、勘違いしている方も多いかもしれませんが、例え常備傭兵制度を活用している国でも全ての兵が傭兵というわけでありません。

そうそう全てを一気に変えることは出来なかったでしょうし、一人でも兵が欲しいなら傭兵だろうが農兵だろうが正規武士だろうが半農武士だろうが構わなかったはずです。

それに、信長に降伏して信長のために兵を提供する新参大名が、降伏した次の日には全ての兵を傭兵に切り替えることができるかと言ったら、できるわけがありません。

そのため、考えられるのは新旧の混成軍です。一見無意味なようにも見えますが、これは非常に意味のある後世です。通常の軍隊が『主兵力→半農武士と農兵 補助兵力→傭兵』であるのに対し、織田家は『主兵力→傭兵 補助兵力→半農武士と農兵』なのです。

つまり、織田家は主力が傭兵なので一年中大兵力を動かせるわけです。敵の兵力が増える農繁期外なら敵兵力の増加にあわせてこちらも兵力を増やせるわけですね。まぁ、旧制度を維持する戦国大名も、むしろ積極的に傭兵を雇ってはいますが、織田家との差は大きいです。

傭兵は金が欲しくて戦争するわけで、戦争で死にたいわけではなく、傭兵は基本的に弱いです。対し、常備傭兵制度を確立した織田家は傭兵たちの生活を保障しているため、傭兵の忠誠心が比較的高く、集団行動にも慣れ、有能です。傭兵において、織田家は他家より頭一つ飛びぬけていたわけですね。



------------竹中家戦闘教義の総括------------

竹中家、というより半兵衛の戦術の妙は自身の兵力を隠し、決勝点までその全てをさらさない技術でした。徹底して相手の奇を付く事を重視した彼の戦術能力は、伏兵の上手さという点で島津と共通点を見出せるかもしれません。

秀吉の部下となった半兵衛は以後、長浜城防衛線以外では、戦場最高指揮官になることはなく、彼の得意である伏兵戦術は使用されていません。

しかし、実際のところ半兵衛は戦術より戦略・外交の才に満ちており、そちらこそが真骨頂でした。半兵衛にとっての戦術は、真田にとっての野戦のように、際立ったものではあるが得意科目ではないと言ったところでしょうか。

軍隊面で言えば、竹中家は織田家の部下の木下家の部下であったので、軍事制度や装備は全て上司の受け売りで、独創性はなく織田家のコピーと考えて差し支えないでしょう。



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