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刀と太刀と火縄銃


戦国時代において、戦場では多くの武器が使用されました。古代から存在した弓や槍からはじまり、火縄銃や大砲で頂点を迎えます。刀や太刀も利用されました。とくに、馬上戦闘では槍や大太刀が大活躍しています。

刀と太刀と火縄銃

さて、最近の戦国時代を語る時、多くのリアル思考作品において似た傾向があります。それは、戦場では刀が役に立たないという事実の強調です。刀と言えば時代劇における侍のメイン・ウェポンです。事実と創作は別物という印象を読者に知らしめるためにはもってこいですね。

では、本当に刀はクソの役にもたたないものだったのでしょうか。首を切る時にしか役に立たない使えない装備だったのでしょうか。実は違います。戦場において、刀という兵器は非常に役に立つ装備だったのです。刀自体は微妙ですが、似た形状の武器である太刀にはメイン・ウェポンとしての資格がありました。

大太刀がメイン・ウェポンとなりえたのには理由があります。まず、騎馬武者に関して言うと、大太刀というのはなかなか有能な武器でした。敵が軽装なら斬撃、重装なら打撃武器として使用できる上に、小回りが利きやすい武器でした。槍より使いやすかったでしょう。

実はこの大太刀は鎌倉末期から戦国にかけて騎馬武者が好んだ兵器でした。騎兵突撃のお供に刀が使われるのは珍しいことではありません。ヨーロッパでもサーベル片手に突撃する騎兵がブイブイいわせています。

戦国時代に大太刀を好んだのは上杉謙信で、彼は馬上親衛隊である馬廻りに身長の高い人間を集めて巨人兵を名乗らせました。大太刀を持つ彼ら四十を率いると、上杉謙信は二万の北条軍を敵中突破、包囲された城への入場を果たします。大太刀による騎兵突撃は、珍しい物ではなかったのです。

では、徒歩ではどうだったか。上杉さんが暴れた関東から視線を西にずらすと、朝倉家に面白い人がいます。真柄さんという剣豪は、二メートルを超える大太刀を振り回し、姉川において徳川の兵を十数人切り殺しているようです。なかなか頑張っています。

ただ、最後は槍でやられたらしく、刀の天敵は射程に勝る槍であることがわかります。では、なぜ真柄さんは大太刀を振り回していたのでしょうか。これには理由があると思われます。解決の糸口は、視線をさらに西のヨーロッパに向けることで見えてきます。

戦国時代と同時期のヨーロッパは、三十年戦争を目前とした時代でした。彼らの戦闘様式は無敵の『テルシオ』というスペイン産の陣形による、超低速防御重視時代でした。槍ぶすまを構築する長方形の陣形は四隅に火縄銃兵を配置し、騎兵による突撃を徹底的に粉砕しました。

テルシオに勝つにはテルシオを使用するしかありません。テルシオとテルシオの戦いは火縄銃の押収に始まり、槍のどつき合いで頂点に達します。最重要の兵器は、槍でした。そして、槍は柄の部分が木製で出来ています。勘のいい人は気付いたかもしれません。

木は刃で切断できます。つまり、剣で槍を切り裂けるのです。当然、ここに目をつけた人間は槍対策に剣士を投入することになります。当時を表現する絵画には、ドイツ傭兵のランツクネヒトと呼ばれるキテレツな格好をした連中の姿を見ることができます。

悪趣味で目立つことしか考えていない彼らは異様な格好をしています。槍や銃を持つ彼らは多いですが、実は二メートルに近い剣を持つ姿を見ることができるのです。巨大な両手剣を振り回す彼らの役目は、戦場を支配する長柄槍の破壊でした。

機敏に動く両手剣の使い手である彼らは、隙を見て敵の槍の柄を切り裂きます。槍の壁が崩れれば、味方の槍が敵の陣形を押しつぶすでしょう。このように、剣をメインウェポンにする存在が欧州には存在していました。同様の戦闘教義を持つ日本において、大太刀が槍を切り裂くチャンスがなかったと言うのは、少し無理矢理な気がしてきます。

もちろん、大太刀が戦場を支配したとまでは言えません。あくまでメインである槍に対処能力を持つだけであって、装備率は槍の足元にもおよばなかったでしょう。せいぜい、騎馬武者が状況に応じて徒歩戦を選択し、槍を持ってないからこれを使おう程度の使用頻度だったと思われます。

槍の柄を切り裂く刀が活躍するのは西洋だけではありません。東洋でも大活躍しています。その担い手は、なんと東洋の海賊である倭寇です。中国人を中心とした後期倭寇は、中国人である王直と呼ばれる倭寇王に率いられ、中国沿岸部を荒らしまわりました。いわゆる、リアル海賊王です。

倭寇の装備は刀と火縄銃です。機動戦を得意とする倭寇は、沿岸警備隊を苦しめ続けました。しかし、中国のある英雄の登場が、倭寇の嵐を食い止めます。戚継光です。彼は自らの私兵でもって倭寇を撃退しました。そして、そのためにある部隊を編成したのです。

当初、戚継光の部隊は倭寇に敵いませんでした。倭寇は、遠距離では火縄銃を繰り出してきます。運よく接近できても中国兵の装備する槍では、倭寇に敵いませんでした。なんと、倭寇は刀を装備しており、それで槍の柄を切り裂いたのです。一説によると、一部の倭寇は柳生新陰流で知られる陰流を習得していたとか。

戚継光はこれに対抗するために、軍制改革を行いました。作りだされた部隊の名は、倭銃隊です。火縄銃と刀を装備するこの部隊は、効果的に倭寇を撃破していったと言います。ここで注目して欲しいのは、槍に対する刀の強さです。てっきり射程面で不利かと思ったら、案外容易に活躍できるところです。

集団戦において優れる槍は、個人戦では刀に負ける危険性が高かったわけですね。おそらく、中国の正規兵は陣形戦を想定して槍が長めだったのでしょう。操作性の悪い長柄槍は、機敏に動く日本刀の敵ではないという事でしょうか。集団戦にしか長柄槍は適性を持たないため、侍たちは短い持槍で戦場を駆け回ったとも聞きます。

ちなみに、茅元儀の『武備志』には、以下のように記されています。『刀はたいした事は無いが、前後左右に飛び回り、剣で斬ろうと近づこうにも、刀の方が長く近づきにくい。また、槍で突こうにも柄ごと両断されてしまう』。

倭寇の装備する刀は大太刀がメインだったそうです。機動力と運搬の利便性に優れていたからでしょう。刀はたいしたことないという評価も適切です。槍や弓、銃ほど危険ではないが、非常にやっかいであるということが文面から伝わってきます。

戚継光は中国の火縄銃である鳥銃と、日本刀をコピーした倭刀で倭寇に壊滅的打撃を与えます。銃と刀は、非常に相性のいい兵器だったのです。この傾向は、西暦1700年前後くらいまで続きます。フリントロック式の銃がフランスで正式採用されたのが1690年で、おそらくその頃には銃剣が開発されていたはずですので。

銃剣の登場まで、近世最強の兵士は刀と火縄銃を携えていました。実はこれ、当時の歩兵にとって最強の組み合わせなんですよね。西洋史にその名をとどろかせるイスラム最強の歩兵であるイェニチェリも、実はこの装備を採用しています。

イスラムの倭銃隊であるイェニチェリは、火縄銃の他にヤタガンと呼ばれる刀を腰につるしていました。火縄銃による一斉射撃の後に行われる抜刀突撃は、多くの敵を恐怖のどんぞこにたたき落としたのです。西の海賊王である赤ヒゲのバルバロッサも、苦手な地上戦はオスマン帝国のイェニチェリに助けてもらっています。

日本はどうだったでしょうか。島津あたりが好例でしょう。関ヶ原における中央突破に際して、島津は鉄砲の一斉射撃の後に抜刀突撃をかましたと、ある文献で読んだ記憶があります。示現流で突っ込んだとかなんとか。真偽は定かではありませんが、あり得ない話ではありません。

銃を携帯する以上、持てるその他の兵器は刀以外にありません。銃剣がない以上、火縄銃兵は刀に頼る以外に術を持たないのです。しかし、刀はやりようによっては槍にも対抗できます。うまく敵陣内部に潜れれば、そこから敵を壊乱させることも可能なのです。そして、陣形を動揺させるには火縄銃は非常に効率的な兵器でした。

火縄銃と刀を組み合わせた兵士たちは、洋の東西を問わず活躍を見せました。イェニチェリについては説明の通り。倭銃隊に至っては、倭寇退治のみならず、なんと明末動乱において後清の女真族を相手に大活躍をしています。鄭成功あたりも倭銃隊を編成し、名将として名を残しています。

実はこの倭銃隊、東南アジアの動乱においても大活躍しています。欧州諸国の植民地でも暴れまわったあたり、よほど優秀な兵士たちだったと言えるでしょう。戦国時代が終わった日本は傭兵需要がなくなり、仕事を失った傭兵が海外に活躍を求めたのがその理由です。戦国以降のアジアでは、日本人傭兵が各地で活躍していたのです。

このように、刀や太刀は戦場において一定以上の活躍をしていました。刀は結局メイン・ウェポンとなることはありませんでしたが、火縄銃と組み合わせることで最大の力を発揮したのも事実です。大太刀については、述べたとおり限定的ではありますが、メインウェポンとして活躍する余地を残していました。

以上のことから、刀が単なる飾りでないことがわかっていただけたと思います。戦国時代の戦場を駆け巡った日本刀が、日本在来馬と同様に活躍をゆがまされることなく、正当な評価を受ける日が来る事を祈らずにはいらせないというのが、私が常日頃から考えていることです。



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