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大鎧


大鎧とは、大陸に影響されて生まれた挂甲が、変化して生まれた鎧です。どことなく中国風だった鎧が、ここに来ていかにもな日本風の鎧に生まれ変わります。大鎧が登場した平安時代は中世真っ只中なので、戦闘は騎兵中心で行われました。

大鎧


騎兵は大きく分けて二種類存在し、槍を振るって接近戦をする槍騎兵と、弓を使って遠距離攻撃する弓騎兵がいます。基本的に槍騎兵は重装で突破力を重視され、弓騎兵は軽装で機動力と遠距離からの撹乱攻撃に特化した形で運用されています。しかし、日本では世界的な傾向とは異なり、なんと重装の弓騎兵が暴れまわります。

重装甲の大鎧を身に纏った弓騎兵である武士は二メートルを超える弓を握り締め日本史に巨大な影響を与えていくことになります。ちなみに重装の弓騎兵は決して他に存在しなかったわけではなく、東ローマでカタフラクトという名の弓を使用するの重装騎兵が存在しました。とは言っても、彼らは槍、剣、弓などを所有した重装騎兵でいかなる射程でも戦える存在として、世界史においては武士よりも特異な連中ではありましたが。

日本の武士は必然的に重装騎兵と軽装騎兵の仕事を両方こなすことになりました。つまり、騎射と突撃の二つの役割を果たしたのです。平地の少ない日本では機動戦の余地が少ないのか、騎兵のみによる軽快な機動戦はあまり展開されなかったようです。ただし、それをやった者は戦術の天才として後世に名を轟かせることになりました。

さて、大鎧に話を戻します。当時の日本の戦いは騎射戦が中心でありながら、もっとも裕福な貴族層がそれを行うので弓騎兵が重装化していました。大鎧は何度か言いましたが弓による戦いに特化した鎧で、肩を守る袖、脇を守る板、矢をはじき返す工夫のされた兜、隙間を狙わせないために隙間を少なくした腰を守る草摺りなど、弓の戦いにおいて大鎧の防御力はすさまじいものでした。

ところが騎射戦に特化するあまりにその装甲は厚く重く、とてもではないが徒歩戦には向かない造りでした。腰を守る草摺りは分割されていないために歩きづらく、接近戦も得意ではありません。そのため、源平合戦の前後から顕在化してきた歩兵の動員力が大きくなる戦いに対抗するのが難しくなっていきます。

特に元寇以降の鎌倉末期、太平記の時代には騎兵が馬から降りて戦うことが増えると、大鎧はさらにその存在価値を失っていきます。時代は徒歩戦、騎乗戦両方に優れた胴丸、腹巻と言った簡易式大鎧にその地位を奪われることになります。しかし、長い歴史を持つこの鎧は格式ある鎧とされ、以後も一部の人間が使い続けます。

特に戦国の世が終わる江戸時代、諸藩の長達が大鎧を作らせたりしていますのでそれなりに人気はあったのでしょう。肝心の戦国時代ではそこまで使われなかったようですので、このサイトで紹介する必要はあまりなかったかもしれませんが、戦国で活躍する鎧の大本であるので紹介させていただきました。


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