戦国紫電将のトップページに戻る




トップページ
サイト紹介
戦国考察コンテンツ
オススメ
リンク

奇襲・夜襲


戦国時代の戦術のみならず、軍事史につきものの戦術として奇襲夜襲について見ていきましょう。

奇襲・夜襲

それにしても奇襲・夜襲、この二つは素人の方でも十分にわかるほどのポピュラーな戦術ですね。敵が警戒していないところをついた奇襲。夜闇に乗じて敵に襲いかかる夜襲。この二つは不朽の戦術であり、古代から現代までいくらでも成功例が存在します。

実は奇襲に向いた時間は夜だけではなく、明け方も奇襲に向いた時間とされています。夜襲は夜に実行するため、敵と味方の見分けがつき難く、指揮系統もメチャメチャになる博打性の強いものでした。

それに対し、明け方は相手が目覚める、もしくはまだ眠っている時間である上に、明かるくなってくる時間であるために識別も容易です。この時刻の奇襲を『朝駆け』と呼び、対する夜襲は『夜討ち』と言います。

奇襲は全ての時刻に置いて相手の隙を突く襲撃ですが、時刻を朝か夜に限定したものは特に『夜討ち、朝駆け』と呼ばれるので覚えておいて損はないでしょう。日本史のみならず世界史においてさえ重要な存在である奇襲ですが、それにはわけがあります。

真正面から軍と軍が激突する野戦では、二倍以上の戦力を集中した側が敗北することは、あまり多くはありません。真正面から平地で戦った場合、数が与える影響はあまりに大きく、よほど武器や文化、戦術レベルが隔絶していないかぎり二倍の敵に打ち勝った戦闘はなかなか見出すことは難しいです。

しかし、奇襲を成功させた場合にはその限りではなく、数倍、数十倍の敵を撃破することも可能です。戦史に残る戦いにおいて、同程度の文化レベルを持つ相手と戦った場合、数倍の敵に対する勝利は、ほぼ全てが奇襲であると言っても過言ではないでしょう。

戦国時代においても奇襲は多用され、名将と呼ばれる人々はこれを用いて勝利をもぎ取ります。

中でも戦国三大奇襲とされるのが織田信長の長篠の戦い、毛利元就の厳島の戦い、そして北条氏康の河越の戦いです。兵力差を順番に述べると、二千対四万五千(信長公記より)、五千対二万五千、一万千対八万です。

通常、倍に近い兵力差を叩きつけられた劣勢側は兵力差がもろに出る野戦を回避し、降伏や講和、城に篭った防衛戦を選択するので戦うことは少ないのですが、積極果敢に奇襲を狙えば数倍の敵も打ち破れるのです。

戦国時代など、兵士が鎧を着て戦っていた時期における夜襲の有効さは、鎧という存在が大きな意味を果たします。

鎧と言うのは身に纏って動くだけで使用者に多大な疲労を与えるために、通常の行軍時や休憩時に身に纏っていることはありませんでした。大阪の陣や島原の乱においても、敵の襲撃が予想される地点まで鎧を身に纏わずに行軍したと記録にあります。

奇襲された場合、多くの兵士は鎧を着ていないでしょうから、その不利は明らかでしょう。そのような理由もあり、奇襲は数の不利を覆すだけの力を持っていたのです。

すさまじい威力を発揮する奇襲ですが、敵に行動を知られてはならないために秘匿行動を余儀なくされます。そのため、あまり多くの兵力を率いて行われることはなく、一万人以上で行われてた奇襲はほとんど存在しません。

時期は違いますが、世界において夜襲を得意戦術とすることで名を知られる国家が存在していました。何を隠そう、大日本帝国です。

最も有名なのは、日露戦争における夜襲でしょう。遼陽会戦と呼ばれる戦いにおいて、第一軍第二師団は夜襲を行ったのですが、これが奇想天外なものでした。なんと、一個師団で夜襲を敢行したのです。

一個師団と言えば、時期や国によっても異なりますが、戦闘員が一万人前後、非戦闘員が五千近くという大所帯です。これだけの人数で夜襲をやらかすというのは、非常識もはなはだしいと言ったところでしょうか。

しかし、第二師団はこれを実行しました。積み重ねてきた夜間訓練と戦場の下調べが功を奏し、遼陽会戦は日本優位により始まります。これを成功させた第二師団は、夜襲の仙台師団として後世までその名を轟かせることになります。

しかし、日本軍得意の奇襲も、やがて劣化することになります。レーダーをはじめとする化学兵器によって夜の闇が払われることで日本の得意技も封殺されることになっていき、第二次大戦ではアメリカにボコボコにされています。

とは言え、効果が薄れたとは言え夜襲の効果はいまだに大きく、総合的な奇襲という意味ではむしろ個人で強力な火器を運用できるようになったことから、余計に効果が増していると言えるでしょう。



次に進む

前に戻る



コンテンツ

TOPに戻る