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調略


調略。それは、敵を味方にしてしまう外交戦術です。戦国時代の勢力図は、主にこの調略によって変わっていきました。しかし、それは戦国時代のような中世的な時代にのみ活躍した戦術でした。

調略

現代では国というものを守る兵士たち、そして指揮官たちは敵に味方を売り渡したりせず、せいぜい捕虜になって戦闘行為を放棄する程度で終わります。しかし、これは民族主義や近代の国家観が生んだ現象であり、中世ではありえないことでした。

中世とは、世界地図からでは見て取れないほどの小国が乱立した時代であり、地域を統一したとか言われている連中も、これらの小国家の盟主になった存在にすぎないと言ってしまえます。小国の領主たちは自身の土地と利益の確保が最優先で、そのためならいくらでも裏切りをし、生き残るためなら何でもやりました。

生き残るために力の強い者を盟主にして、その領地に君臨することを許可してもらったり、統治の保障をしてもらう必要がありました。戦国の幕を引いた家康は大小三百ある中小国の盟主となり、江戸幕府の元で中小国家のリーダーとして日本に平和と安定をもたらしました。

そんなわけで土地を実際に支配しているのは、リーダーである盟主から土地をもらった小大名や土豪です。普段は盟主に従っていても、その支配が揺らぐと平気で裏切ったりします。そのため、運命を決める一戦で盟主が敗北しようものなら主家を見限り、勝者に媚を売って生き残りを狙うものが大半でした。

結果として、このような封建時代であった戦国時代ではたった一つの戦闘で全てが決してしまうことは珍しくありません。まだ交戦能力があってもそれを支える部下が次々に裏切ってしまうからです。

桶狭間、厳島、河越、長篠、賤ヶ岳、数えればきりがないでしょう。しかし、もっとも戦国時代に大きな影響を与えた戦いはかの有名な『関ヶ原』です。関ヶ原の戦いでの勝利が、徳川家康による徳川幕府200年の平和を生む最大要因になります。

たしかに関ヶ原で石田三成率いる西軍は大打撃を受けました。しかし、残った兵士の数でも、石田三成が逃げ延びていれば交戦も可能でした。地道に籠城を続ければ、勝機もうかがえたはずです。それだけの兵は残っているのですから。

しかし、実際には三成がいても不可能だったでしょう。決定的な一戦で多くの者が三成を見限るからです。

第二次世界大戦の太平洋戦争ではミッドウェイで帝国海軍は決定的な敗北を喫したと言いますが、日本が降伏するのはその数年後で、その後もいくつも有名な海戦を繰り広げています。このように、封建国家と近代国家は敗北後の戦闘継続能力が大きく違います。

封建国家の時代は、なにも戦争で相手を屈服させる必要はありません。脅して敵の盟主の部下を、こちらに寝返らせればいいということです。この寝返り工作を『調略』と言います。数ある武将の中でも特に調略が上手かったのは豊臣秀吉で、西日本の攻略を任された秀吉は次々と敵を調略、織田家に屈服する勢力を増やしていきます。

このように戦国時代において調略は非常に優れていましたが、これを戦略的ではなく戦術的に活用した武将がいます。それは徳川家康で、彼は関ヶ原においてこの調略を成功させます。

戦いが始まる前から敵に猛烈な調略をかけた家康は、包囲された状態という絶対必死の状況の中、包囲に参加する武将の大半の調略に成功。ほとんどの武将は徳川方の東軍を攻撃せず、小早川秀秋は戦闘拒否どころか味方を裏切って横撃を食らわせて勝利を呼び込む働きさえしたほどです。

このように封建時代では敵勢力は一枚岩ではなく、内部からいくらでも切り崩せる可能性がありました。そのような時代に調略という手段は、戦場での勝利以上の結果をもたらし、時には戦場での勝利にさえ貢献したのです。



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