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日本と世界の火縄銃


火縄銃は、世界史にすさまじい影響を与えました。ヨーロッパがアメリカ大陸やオセアニア諸島の原住民を撃破して世界の覇者になる原動力を与えたのもそうですし、金持ちの貴族騎兵を没落させて、一般庶民の歩兵が戦場の趨勢を左右するようにしたのもそうです。

本と世界の火縄銃

金属すら持たない原住民と違い、多くの文明国は火縄銃の受け入れることに成功しました。結果、文明国相手にヨーロッパが征服を成功させるには、外燃機関の登場を待つ必要があったのです。今回は、世界諸地域の火縄銃について確認していきましょう。



【ヨーロッパ】

世界で最初にまともな火縄銃を開発した地域です。タッチロック式の手銃でヤン・ジシュカが世界で初めて鉄砲を有効活用したことでも有名です。とは言え、世界で初めて火薬を兵器として扱ったのは中国です。なぜ、欧州はここまで評価されているのでしょうか。

そもそも、火薬が兵器として活躍したのは燃焼という現象を期待してのものでした。爆発音によって敵の士気を砕いたり、敵を燃やしたりが最初の使用法でした。ほかには、矢に火薬をくっつけてロケット推進剤にしたり、火薬を内蔵した矢を放って爆発させたりです。

その後、火薬は投射兵器として活躍することになります。石の弾丸を大砲で飛ばすものです。初期の大砲は非常に微妙な存在でしたが、それでも大きな活躍をしました。

火薬を欧州に伝えたのはモンゴルです。攻城兵器として火薬兵器を積極活用したため、モンゴルは多くの城砦を攻略できました。当時の無知なロシアなどでは、モンゴルの火薬攻撃を見て「敵は攻撃用のドラゴンを保有しています」などとの証言を残しているほどでした。

中国やイスラムをはじめとして、各国は火薬を多く使用していますが、欧州は後進国なのでそこまでではありませんでした。しかし、欧州は画期的な火薬兵器を開発します。それは、兵士一人ひとりが火薬の爆発を利用して弾丸を飛ばす携行火器です。

それまで火薬兵器とは、槍の先に火薬をつけて火炎放射器にするとか、巨大な大砲で石弾を打ち出す攻城兵器だったのです。それを、個人用投射装備として活用し始めたのです。ヤン・ジシュカが十倍以上の騎士を歩兵で撃破した欧州は、それを最初にコピーできる位置にいたのです。

重装甲の騎兵を歩兵が撃破できる意義は大きなものでした。クロスボウでも可能でしたが、火薬の爆発音や、使用者の腕力に頼らないという特性はクロスボウを超える存在価値を持っていたのです。たちまち、火縄銃は欧州最強歩兵装備となりました。騎兵は戦場の主役から転げ落ちました。

装甲の突破を基軸として生み出された欧州の銃は、威力、射程において非常に強力なものでした。長い銃身、巨大な口径。簡単に騎士の鎧を貫通できました。しかし、これは日本でいうところの狭間銃のようなもので、とても持って射撃できるものではありません。

そのため、欧州の銃は銃架と呼ばれる棒を必要としました。この上に銃を置いて、そして射撃するのです。そのため、射撃速度や機動速度には大きな問題を抱えていたのです。

これを解決したのは欧州の軍事改革者、グスタフ・アドルフです。彼は銃の口径を小さくし、長さを短くし、重量を減らしました。能力を落として、運用の容易さを向上させたのです。こうして、西欧の火縄銃は軽量化によって作戦の自由を得たのでした。



【イスラム】

中東を支配するイスラム勢力は、勢力圏がモンゴルに支配されていた影響もあって火薬兵器の受容は容易でした。イスラムの基本姿勢はモンゴルと同様、火薬は攻城兵器というものです。巨大な大砲で石弾を打ち出し、数多くの城を崩壊させました。

中でも有名なのが、コンスタンティノープルを攻略したウルバンの巨砲です。この巨大な大砲が、難攻不落の三段防壁を突破したために、ビザンツ帝国は滅びたのです。このように、イスラムは積極的に火薬を用いて戦いました。

しかし、個人携行火器としては先見の明がなく、欧州が取り入れたのちにコピーするに留まります。ですが、精鋭部隊である火縄銃部隊イェニチェリの錬度の高さから、幾度も西欧軍を野戦で叩きのめしています。

海戦においては大砲が重要なので、イスラムの本領発揮が可能でした。イスラム勢力はプレヴェザの海戦を機に地中海支配を完全なものにします。続く、レパントの海戦まで、地中海はイスラムの海だったのです。



【インド】

語ることは多くありません。火薬後進国であったため、南下するイスラムにあっけなく敗北し、イスラム政権であるムガル朝が出来てしまうほどでした。インドは気が付いたら負けがかさみ、最終的にはイギリスの植民地となってしまいます。



【中国】

火薬を発明した偉大なる文明国。火薬の材料である硝石が、イスラムにおいてシナの雪と呼ばれているあたり、いかに重要な位置にいたかがわかってきます。

中国は、火薬を燃焼兵器や爆発兵器として運用を開始しました。しかし、効率的な火器を作る前にモンゴルに征服されます。野戦において、火器の実力は騎兵を駆逐できるほどではなかったのです。

中国による火薬兵器の革命は、まず朱元璋によって起こされました。銅貨鋳造技術を利用した朱元璋は、銅で出来た砲を用い、火薬兵器を徹底利用します。南中国を拠点にする彼は、南部で三国志をしていた残り二国を滅ぼし、北上してモンゴルを中国から駆逐します。

この時、朱元璋は火器を積極的に利用しました。そして、火器の素晴らしさを理解する明国は火器を国家機密扱いして、外に漏らすことはありませんでした。この姿勢は火器の発達を阻害し、後の悲劇を生むことになります。

明国は世界初である火器専門部隊を編成したことで知られます。しかし、中国の銃は基本的に銅を用いるため、銃身の強度に問題がありました。これも後に悲劇を生む原因となります。

火薬兵器の停滞を見せる中国でしたが、西欧の大航海時代にともない、ポルトガルの銃を入手することに成功します。しかし、技術不足により、模造することはできませんでした。

次に、倭寇によって日本式の銃がもたらされます。これは鍛鉄性であり、銃身の強度に優れたものでした。中国の武将はこれを採用しますが、銅で銃身を作るため、耐久度をはじめとする性能では劣ったものでした。たまに武将の私兵が日本の銃を使ったりしています。

大変革が起こるのは秀吉の朝鮮出兵です。これにより、中国は日本の銃の威力を知りました。日本兵捕虜を利用し、銃の完全コピーに成功します。しかし、これは一部の将軍の私兵のみでした。

不徹底の理由は中国の官僚のせいでした。彼らはイスラムから入手したルーミー銃を完全コピーします。イスラムの銃は重い代わりに威力と射程に優れます。中国人は運用の容易さを無視し、ルーミー銃を正式採用するのです。

巨大火器については、中国はこれを積極的に受け入れています。特に、大砲への熱の入れ方は日本以上でした。朝鮮での戦いにおいて、日本は中国の大砲に苦戦しています。西洋砲を完全コピーした中国は、その力でもって後の後金戦を戦い抜くのでした。



【朝鮮】

朝鮮は、他の地域に比べて、哀れなほどの後進国でした。銃はタッチロック式で、大砲は持たず火砲がせいぜい。この状況が変化するのは、秀吉の朝鮮出兵がきっかけでした。

日本人捕虜から技術を盗んだ朝鮮は、すさまじい火縄銃国家に変貌します。身をもって火縄銃の威力を学んだからでしょう。日本式の火縄銃を装備する彼らは精強で知られました。明は後金との戦いにおいて、歩兵火器の不足を朝鮮の火縄銃隊で補おうとしたほどです。

明が清に変わった後、清はロシアと一戦交えます。なんと、この時も朝鮮は清に火縄銃隊を派遣し、清の勝利に貢献したのです。このように、朝鮮出兵の前と後では朝鮮の国際的な地位は天と地ほども違いました。それは、日本から吸収した火縄銃の技術が理由となっていたのです。



【日本】

日本は、世界で最初に火縄銃を最終形態にまで押し上げた国でした。銃架を用いずに使用できる軽量火縄銃を導入し、機動的な戦術を多く用いました。威力の不足は銃身を短くして口径を大きくするなど、工夫と運用でごまかしています。

火薬後進国であった日本は火器を受容するや否や、多くの兵器を作り出しています。特に注目すべきなのは、他国に見られない大鉄砲です。山がちで投石器や大砲をもたなかった日本は、携行に有利な巨大火縄銃を積極的に用いたのです。

しかし、代わりに大砲が不足しがちであり、朝鮮での戦いでは思わぬ痛手をうけました。火砲しかもたない朝鮮水軍に苦汁を舐めされられ、積極的に大砲を陸海両面で使用するようになりました。

舞台が日本に戻った後の日本軍は大きく変化します。関が原では大砲が鳴り響き、大阪の陣では最新式のカルバリン砲が姿を見せます、天草の乱では、迫撃砲により榴弾を発射することをオランダ人から学んだほどです。

ところが、ここから続く250年の太平が日本を腐らせます。日本が強国として内外に認知されるには、日清日露の戦いを勝ち抜く必要があったのです。



【まとめ】

以上から見てみると、巨大火器に比べ、日本の小型火器は世界に先駆ける存在であったことが見えてきます。後にグスタフ・アドルフが行った軽量化を、数十年も早く終わらせてしまったのです。

一説によると、ポルトガル人がマラッカ式火縄銃を運んできたことが原因とする見方もあります。マラッカ式は狩猟用の火縄銃であり、鎧をぶち抜く威力を求められなかったために、軽量小型であったそうです。

どちらにせよ、日本が世界に先駆けて小型軽量火縄銃を用いたという事実には変わりがありません。戦国時代の日本の強さが、世界的に見てもトップレベルであったことがこの事実から見えてくるのではないでしょうか。



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