戦国紫電将のトップページに戻る




トップページ
サイト紹介
戦国考察コンテンツ
オススメ
リンク

戦国時代の騎馬武者について


戦国時代は中世と近世の狭間なので、馬に乗った兵士である騎兵が活躍した時代でもありました。軍事史を見ると、古代が歩兵の時代であり中世は騎兵の時代、そして近世は歩兵の時代とされています。

戦国時代の騎馬武者について

日本も例外ではありませんでした。中世はバリバリ騎兵の時代であり、武士と呼ばれる騎馬弓兵が戦いの主役でした。騎兵が戦いの主役を勤めたのは平安から室町初期くらいまででしょう。時代が近世に近づくごとに、騎兵の価値は減少していく傾向にありました。



------------戦国以前の騎馬武者------------

初期から鎌倉時代あたりまで、武士の主力武器は弓です。接近時には馬上で使いやすいように沿った刀である太刀を使ったそうですが、資料には格闘戦である組討が行われたともありますので、必ずしも太刀を使っていたわけでもないようです。

鎌倉末期から南北朝、つまり太平記の時代では、これが少し変化します。もちろん弓が忘れ去られたわけではありませんが、接近戦では巨大な刀、大太刀(もしくは野太刀)が使われるようになります。

室町末期から戦国終焉までは騎馬武者の武器は弓、槍、大太刀です。後半になると鉄砲という選択肢もあったようですが、主力武器ということはないでしょう。

しかし戦国期には、すでに騎兵の天下は終わっていました。戦場においては歩兵が主力となり、騎兵も降りて戦うことも多かったそうです。この傾向は南北朝の頃から存在していました、歩兵の動員力が高まったのもこの頃です。



------------戦国時代の騎馬武者------------

最近は戦国時代の研究が盛んになってきており、今まで真実だとされてきた通説がいくつも覆されてきました。

曰く、信長が長篠の戦いで使った鉄砲の数は三千丁ではない。
曰く、長篠の戦いで信長は三段射ちなどやってはいない。
曰く、武田騎馬軍団など嘘っぱちである。

戦国好きの方なら一度くらい聞いたことのある説なのではないでしょうか、私もよく耳にします。みなさん、いろいろな意見を言っておられますね。さて、その中でこのカテゴリーに関係があるのが武田騎馬軍団など嘘っぱち、のあたりです。どういうことなのでしょうか。

大河ドラマなどでは大きくて立派な外国の馬が使われており、武士たちは巨大な馬にまたがって戦います。しかし、日本に存在した馬は小さい種類でポニーと呼ばれる馬です。

そんな小さな馬では突撃など出来ない。というより体が小さいので鎧を身に纏った重装甲の騎馬武者など乗せて走れない。 そういう主張がまかり通っています。

他には、騎馬武者は騎馬武者だけで動いたのではなく、歩兵と共に動いたように取れる資料が数多くあります。合戦屏風などでも突撃する騎兵は歩兵と一緒に突撃しています。

他にも武田家の記録である甲陽軍鑑などでは馬からは降りて戦う。日本に来た外国人であるルイス・フロイスの日本史でも「私たちは馬に乗って戦うが日本人は馬から降りて戦う」などとの記述が見られます。

ですが日本の資料には騎兵が突撃したような記述があるのも事実です。乗り切り、乗り崩しと言った用語も資料には散見されている様子。

では、結局どちらが本当なのでしょうか。いろいろと調べたのですが、どうやら実際には馬に乗ったまま戦っていたそうです。ただ、通説通りに最強の騎兵隊が歩兵隊を蹂躙したとかそのような光景では無いようですが。



------------日本に存在する馬の種類 ------------

まずはサイズの問題から解決していきましょう。当時の馬とは同一かどうかは不明ですが、現在日本には日本在来馬が八種類います。内、三種類が中型馬、四種類が小型馬に該当します(残りの一頭はその中間だそうです)。

どの馬が実際にどこで使われていたかはわかりませんが、分布からして木曽馬が一番歴史の表舞台に立っていたようなので、それを基準に話をしていきます。

木曽馬は中型馬で、大きさは平均で135センチ、体重は350〜420キロだそうです。135センチ、小さいですね。いえ、実はコレって小さくないんです。馬の大きさは肩までの高さで計測するので、頭の高さまで加えるともっと大きくなります。

これだけデカければ十分、実戦で使えるものと思われます。根拠はあります。実は、日本の馬は蒙古馬と呼ばれる馬の子孫であるという研究結果が存在するのです。

ちなみに蒙古ってあれです、モンゴルです。モンゴルの有名人のチンギス・ハーンはご存知ですか? 蒙古馬にまたがる騎兵部隊を率いて国土を急速に膨張させた世界史上最大の英雄です。

彼の子孫は世界で一番巨大だった国(二番とも)を築き上げます。その原動力は間違いなく、蒙古馬のパワーだったと言えるでしょう。

さて、チンギス・ハーンもお世話になった蒙古馬。それと同じくらい大きい馬が実戦で役に立たないというのは本当でしょうか? きっと役に立ったのではないかと思います。

ちなみに源義経の馬は140センチを超えており、大将の乗る馬はかなり大きかったそうです。まぁ、これは戦国時代ではございませんが。

さて、木曽馬以外の馬の大きさも語るとしましょうか。戦国時代に日本でなかった沖縄と北海道を除外して考えます。北海道に一頭、沖縄に二頭、そして木曽馬を除外すると残り4種類となります。

まず九州の南東、宮崎県に生息する御崎馬。この馬は北海道の道産子、木曽馬と同じ中型馬で、体高平均130センチ。次に長崎県の対馬に生息する対州馬は小型と中型の中間で平均127センチ程。

残るは鹿児島のトカラ馬、四国の愛媛県に存在する野間馬ですが、これは110〜120センチ平均の大きさの小型馬です。沖縄にも二種類いますが、両方とも似たような大きさの小型馬です。

とりあえず以上をお知りになって気付いたことは御座いませんが? そう、日本の東側は比較的大きめの馬が多く、西側は小さめの馬が多いのです。四国や九州は小さい馬も多かったそうですね(宮崎の御崎馬は中型で大きいですが)。

さて、ルイス・フロイスが「私たちは馬に乗って戦うが日本人は馬から降りて戦う」という言葉を残していますが、彼について少しだけ語ってみましょう。ルイス・フロイスは日本に、戦国時代にやってきた人物ですが、彼の行動範囲は基本的に西日本です。そして、西日本には比較的小さめなお馬さん。

これは仮説ですが、ルイス・フロイスの行動した地域は馬が小さいため騎乗戦闘があまり行われなかった地域だけなのではないでしょうか。

さて、さきほどの推測を私にさせた資料が存在します。それが雑兵物語です。当時の戦国の雑兵の戦い方を描いた資料ですが、それにこのような会話があります。現在手元に資料がないので、記憶に残っている文章を書き記してみます。


ある雑兵が別の雑兵に言いました。
「西の連中はダメだね、三十騎くらいの馬に突っこまれて陣形を崩しやがった。西側では馬に乗って戦わないから馬の突撃になれてなかったんだな」
すると、もう一人の雑兵が言いました。
「そんなに西国の者をバカにするもんじゃねぇ。東国の者は馬には乗れるが船に乗れないじゃないか。この間、海戦があったけど東国のやつらは敵が攻撃してきたからって全員が片側に集まったせいで船が転覆して全員溺れ死んだじゃないか」


とかなんとか。記憶だけで書いてるのでなんですが、大筋は間違っていないはずです。もしこれが間違っていないなら、東側に比べて西側は騎兵が廃れていたという論拠になります。

馬のサイズの分布、フロイスの行動範囲、雑兵物語の記述。これを重ね合わせて見てみると、騎兵による突撃が存在したという主張も可能なのではないでしょうか。

と、ここまで言っておきながら西日本での騎兵突撃が無かったという主張の否定も一応しておきましょう。ただ、資料を見たところ北九州での騎兵突撃に関してはかなり危うい可能性が高いです。小さい馬ばかりですし、フロイスが長くいたのって確か長崎のはずですし。

まぁ、フロイスさんが戦場を見たかどうかはわからないので確実に無かったとまでは言い切れないけど、危ういのは確かですね。

が、一応騎兵突撃があった可能性を述べる根拠だけでも挙げておきましょう。「私たちは馬に乗って戦うが日本人は馬から降りて戦う」、ルイス・フロイスさんのお言葉は確かこんな感じであったはず。さて、これは真実でしょうか。本当に真実なのでしょうか。

何が言いたいのかわからない人のためにさらに言いましょう。『ヨーロッパの騎士は本当に下馬して戦わなかったのでしょうか?』

戦いました。戦国時代と同時期ではありませんが百年戦争において西暦1356年に行われたポワティエの戦いでは騎士が下馬して戦っています。さらに古い話ですが西暦552年に行われたタギネーの戦いでも騎兵を下馬させるシーンが見られます。

ところで、当時のヨーロッパには竜騎兵という兵科が存在していました。ドラゴンに乗って戦う騎兵ではありません。『ドラゴン=火を吐くもの=銃』といったイメージでしょうか。彼らは銃をを携行することからこの名がついたそうです。

さて、この竜騎兵は火器を装備した騎兵でしたが、騎乗戦闘は少なく下馬して戦うのが普通だったそうです。移動時に馬に乗り、戦闘時は降りる。どこかよく言われる騎馬武者の行動に通じるところがあるように思えます。

ルイス・フロイスはヨーロッパでは馬に乗って戦うと言っていますが、下馬しての戦闘もあったようですね。では、逆に日本でも馬から降りてと言われていても馬に乗って戦っていた可能性がなかったわけではありません。

というか、ルイス・フロイスは本当に戦場を見たのでしょうか。彼の日本史を読んでないので断言はできませんが、下馬戦闘をする(あるいは盛んだったのかも)のを見るか聞くかして「降りて戦う」という記述を残した可能性はあります。

いろいろ述べましたが、結局のところ私にもよくわかりません。ですが、目にした資料を総合すると騎馬武者が騎兵突撃をしていた可能性が高いという主張ができるということくらいです。もしよかったらみなさんも調べてみてください。なにか面白い記事があったら教えていただけると嬉しいです。

------------騎馬武者による戦闘------------

さて、では次は戦国時代に騎馬武者だけで編成された騎兵部隊が実戦で運用された戦例を見て見ましょう。

とはいえ、正直探すのに苦労しました。
もしかしたらもっとあるのかもしれませんが、とりあえず見つけられた戦例をご紹介します。

北条氏と上杉謙信が唐沢山城を巡って争いをしていた時のことです。北条氏政3万5千に包囲される唐沢山城、そこに8千の兵を率いた上杉謙信が救援に来ました。

この時、上杉謙信はなんと40数騎を引き連れて敵を中央突破。見事城に敵前入城を果たし、この所業に驚いた北条氏政は兵を退いたそうです。

たしか『唐沢山城の戦い』とかいう名前の合戦だったはずです。一次資料を見たわけではないのでなんとも言えませんが、この40数騎が騎兵だけの数なら騎馬武者のみを運用した戦例と言えます。

このように騎兵部隊だけで突っこんだ戦例を見つけるのは非常に困難です。この原因は、おそらく騎兵のみで編成された部隊が小規模であったことが原因なのではないかと考えています。



------------当時の部隊編成------------

当時の部隊編成は長柄(槍)組、弓組、鉄砲組、旗組、騎馬隊、目付、太鼓・貝、そしてそれらを指揮する侍大将の本隊から構成される『備』という部隊単位が存在したそうです。これらの行軍の図は合戦屏風などでも見て取れるらしいので、興味のある人は見ていただけるとおもしろいかもしれません。

どうも実際の合戦はこの複数の備が一個軍となって戦ったようです。つまり、全軍の騎馬武者が一ヶ所に集まって行動することはなかったのではないかと考えられます。そのため西洋の戦史のように、『右翼に三千、左翼に五千の騎兵部隊』といったような記述がないのではないでしょうか。

ただ、備えを立てるという言葉が当時には存在しています。集めた土地持ち武将を正式な部隊として編成する行為を指す言葉です。

当時の戦闘は高度に組織化されたものでした。部隊の兵士は同じ武器を持つ均一な者で占められることが多かったのです。こうすると、部隊は大きな力を発揮しました。

しかし、武将たちが各地から集めてくる部隊はバラバラの装備をしています。例えば、千石クラスの武将だと、動員兵力は20人前後。この内、侍が4人で、槍と弓がまちまちと言った感じでしょうか。とてもではないですが、そのままでは使えません。

そこで、部隊を解体して編成しなおします。備えを立てるのです。槍は槍部隊、弓は弓部隊に編入します。騎馬武者は騎馬部隊に組み込みます。こうして有力大名に吸収された弱小大名たちは部隊の歯車として備に組み込まれるのです。

ちなみに、後北条氏に従う岩付衆の部隊は500の騎兵部隊を抱えていました。指揮官は六人ほどです。分割すると80数騎を一人が指揮することになります。なにか見えてきた気がしませんか?

三桁の騎兵部隊が一つの備えに存在しているという事は、やはり全軍は騎兵を備えごとに分散しているということがわかります。そして、現場指揮官が率いるのは数十騎。

雑兵物語における騎兵運用は、現場指揮官が好機をとらえて指揮下の騎兵を運用したものと言えるのではないでしょうか。

備えの騎兵全てが同時に動いた戦例としては、馬筏と呼ばれる騎兵のみによる渡河戦術などもあります。基本は分割、時たま集中運用という形が多かったように思われます。

実際、上杉謙信の中央突破も40数騎です。平地の少ない日本では、この程度の数が一番使いやすい騎兵の数だったのではないでしょうか。どちらにしろ、大規模な騎兵部隊の存在は確認できません。全軍の騎兵数が多いのと大規模な騎兵部隊が存在しないことは矛盾しないのです。

ちなみに江戸中期、12万5千石の石高を有する大名である前橋藩酒井雅楽頭家は9つの備を指揮下においていたそうですが、その内の1つ、本多民部左衛門備率いる備の騎馬隊の騎馬武者数は22騎だそうです。これはウィキで拾ってきた情報なので信頼できるかどうかは謎ですが、ソースは(高木昭作 1990)だそうです。

以上の点から私は戦国時代には騎馬武者のみの部隊が存在したと結論を出したいと思います。しかし、世に知られているような武田騎馬軍団の存在は肯定できません。なぜなら、何千何万と言った巨大な騎馬部隊(騎兵のみの部隊の意)が存在したという証拠を見たことがないからです。




------------悪い意味で有名な騎馬武者否定実験------------

さて、戦国時代の本を書かれている方の話をします。この人は、NHK歴史番組作成のためにある実験をしたそうです。

いわく、「中世の馬と同じ体高130センチ、体重350キログラムの馬に、体重50キログラムの乗員と、甲冑相当分45キロの砂袋を乗せて走らせたところ、分速150メートル出すのがやっとで、しかも10分くらいでへばってしまった」さらに、「旧陸軍の基準では、速く走る駆歩(ギャロップ)は分速310メートルではるかに劣っている」とかなんとか 。

現在、手元に資料が無いのでネットからの引用ですが、昔義経の本を読んだ時に似たような文章を見た記憶があるので、もしかして同じ人の実験かもしれません。ちなみに駆歩はキャンターで襲歩はギャロップ。では、実験結果の考察からいきましょう。

まずは重量について、50キロの乗員と45キロの砂袋を乗せて走ったとありますが、実験に使った馬は重量物を載せて走る訓練をしていたのでしょうか。訓練無しで馬が戦闘で使えるのでしょうか。有名な史料である信長公記でも訓練の様子が描かれているので、当時の方々は馬を調教していたはずです。

次に10分でへばったとありますが、10分間全力(ギャロップ)で走り続けたのでしょうか。もし、全力で10分なら十分です。馬は常に全力で走りっぱなしではありません。ナポレオンの戦いで最も有名なワーテルローでも比較的遅い速度(トロット)で行動する騎兵の様子が描かれていたりする資料があります。

つまり、十分は走らせすぎなのです。訓練された馬でもヘバるのは当然です。ちなみに、訓練は非常に重要です。人間で言えば、ロッククライマーなどが好例となるでしょうか。

例えば、人間は鍛えれば握力と道具を駆使して岩の壁を登ることができるという資料があったとしましょう。宇宙人か何かがそれを見つけて、人間を適当に拉致して道具を与えたとします。そして、宇宙人は人間に岩の壁を登るように指示します。果たして、登れるでしょうか?

もし、これを読んでいる方が拉致られたとすればどうでしょう。練習もしてない岩山登りなどできるものでしょうか。つまり、そういう事です。

さらに、この主張をした方は馬のサイズに言及もしました。日本のポニーでは役に立たないうんたら。この主張も的外れです。重要なのは、決してサイズではありません。重要なのは馬の持つ能力です。

サイズについての結論から言わせてもらうと、戦闘力と体高は関係ありません。当時の馬にもっとも近いとされる木曽馬の体高は130センチ前後。スコットランド独立戦争において猛威を奮ったホビーと呼ばれる馬も130センチ前後。ちなみにこの馬、どちらもポニーです。

一般人の思い浮かべるポニーは主にシェトランドポニー。体高は100センチ程度の小型馬です。ちなみに、ポニーの定義は148センチ以下の馬を指します。

さて、日本の馬には「いけづき」と呼ばれる馬が武将によって所有されていました。体高四尺八寸(約145〜150cm)。もはやここまで来るとポニーとされる品種でありながら、グレートホースと呼ばれる部類に編入することさえできてしまうでしょう。ポニーの定義は実にあいまいです。

ちなみに、先ほどのホビーと呼ばれる馬はあまりに有能であり、イングランドのエドワード王はスコットランドにホビーが行き渡らないように輸出を止めるように命じたほどです。

むしろ、当時の記述を見る限り、小型馬のほうが速度や敏捷性において優っているように当時の人間は認識していた節さえあります。

ところで、現在の大型馬の元になっているアラブ種がアラビア半島から欧州に来たのは1500年。主にポーランドで品種改良が行われ、あのユサールことポーランド騎兵の原動力となりました。

古代ローマ時代に使われていた騎兵のサイズは、最大で139センチのものだったそうです。それまでは小さい馬が欧州を駆け巡っていたようにも見えます。紀元前のカンネーの戦いやザマの戦いはポニーで行われた可能性さえあるのです。

中国始皇帝の兵馬俑出土の馬のサイズは130センチ。兵馬俑は限りなく現実に近づけているので、この体高が当時の基本であったことがわかります。少なくとも体高と戦闘能力に全く相関性はないことがこれでわかるでしょう。

さて、他にも騎馬武者活躍否定説としては、騎馬兵はいたが大勢はいなかった、蹄鉄も打ってない馬では密集突撃できない、訓練の形跡もないなどがあります。一つずつ確認していきましょうか。

数については天正3年の『上杉軍役帳』を参考にしてみましょう。『歴史雑学BOOK 図解・戦国大名格付け』に記載されているそれの数字を記すと、記載兵力5514に対し、騎馬の数は566とあります。四捨五入すれば10%、しないと約9.7%です。少ないですか?

そこまで少なくないと思います。歩兵主力時代の古代ローマがカンネー会戦で用意した兵力は歩兵6万4千に対し騎兵6千。歩兵中心の国の歩騎比率なんてこんなもんだと思います。ちなみに武田軍の騎兵比率は12%(小林計一郎氏の試算)。北条家の騎兵比率はさらに高く、騎兵比率は20%です(『井上文書』 天正15年の軍役帳より)

あと、この北条家の比率は300人の兵の比率なので全軍かどうかは知りませんが、北条家に騎兵が多いのは彼らが日本で一番平地が多そうな関東に拠点を持っていたからと思われます。蹄鉄については日本の国土に石畳の道がなく、蹄が削れにくい上に武士には替え馬がいるはずなので問題なし。訓練については信長公記に記述があるので問題なし。

ただ、これを中世基準で考えると相当少ないと言ってしまえるでしょう。騎兵が主力の中世において、騎兵と歩兵の比率は1:1から1:4の間におさまることが多いです。代わりに、騎兵を維持するために動員兵力が減っている様子が良く見られます。中国の隋の時代だと、1:2くらいだったでしょうか。騎兵なしに覇権国家はありえなかったのです。ちなみに、中世最強国家のモンゴルは1:0でした。全軍騎兵です。チートすぎますね。

まぁ、私が騎兵に関して持っている知識はだいたいこんな感じです。以上を読んでみてみなさまはどう思われますか?意見は人それぞれですし、異論は認めます。この文章を読んだ人の中で、少しでも日本在来馬の名誉が回復することを期待します。

次に進む



コンテンツ

TOPに戻る