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大鉄砲


火縄銃の弾の大きさは1匁(8.5ミリ)〜10匁(18.3ミリ)と呼ばれる大きさが一般で、かなり厚い装甲を貫ける10匁の火縄銃は士筒と呼ばれたそうです。扱いが難しいために熟練の武士しか使えなかったからついた名前なのでしょう。

大鉄砲

さて、士筒でも威力が十分ではないと考えた戦国時代の人間たちは、さらに強力な鉄砲を作ります。それが大鉄砲、大筒と呼ばれる巨大な火縄銃です。三十匁(27ミリ)以上の口径のものがこの名で呼ばれ、戦国時代では最大で百匁のものが使われていたそうです。

五十匁クラスの口径となると海外では大砲と分類されるものであったらしく、その威力はさして知るべしと言ったところでしょうか。江戸時代になるとどんどんこれが巨大化し、最終的には単位が繰り上がって1貫目筒と呼ばれる大口径の大鉄砲が作られるにいたります。

1貫目筒の重量は短めのもので八十キロ、長めのもので百二十キロを超えたらしく、これを抱えてぶっ放すわけですから、曲芸にもほどがあるというものです。百匁を超えると三十キロ以上のものになるらしいので、合理的な射撃を好む使い手は車代や銃台を用いて射撃をおこなったそうです。

しかし、心ある軍学者は大きすぎるのは戦場で使うのには不向きとしており、実際には信長も使ったとされる30匁が都合のいいサイズらしいです。幕末で官軍を相手にした米沢上杉藩の30匁大筒隊は洋式装備の官軍に対し、彼らが篭る城壁の集中破壊を行って味方を喜ばせたそうで、このように、威力のある大筒は攻城戦でも用いられ、それなりの成果をあげたようです。

日本で巨大な大砲があまり用いられなかった理由は大鉄砲である程度の代用ができたというのもありますが、日本の城の質にも問題がありました。ヨーロッパや隣の中国では石やレンガで分厚い壁を作り、それを都市の周りにめぐらせて鉄壁の防御としました。

しかし、日本の城は壁で囲まれてこそいれそこまで強固ではなく、今日に見られる天守閣のあるような城はほとんど存在してはいませんでした。中でも一番数の多い山城は、城といっても知らない方から見れば城と扱われない可能性さえあるほど城に見えないものでした。

山城は基本的に百メートルをこえる高さの山の木を切り倒し、山のデコボコに合わせて敵が移動しにくい仕組みをめぐらせ、敵が入ってこれないように木の柵をめぐらしただけのものです。いざ戦闘の際には木の置盾を並べて敵の遠距離攻撃を防ぐといった戦闘法を行いました。

これでは攻城兵器の開発が急がれるようなことにはならず、せいぜいが物見やぐらと言った程度の物が必要になった程度でしょうか。大砲も山が多い日本では機動に適さないために開発されず、巨大な鉄砲である大筒がその代用として活躍するほか、手榴弾に近い兵器である焙烙火矢が活躍した程度でしょうか。

ちなみにこの焙烙火矢は大筒で飛ばしたりもしたそうです。(焙烙火矢が大筒で飛ばすやつで、焙烙玉が手で投げるやつという分類があるっぽいのですが、正しいかわからないのでここでは同一のものとして扱います)大砲がなかったために日本の戦国時代は世界史的に見れば遅れているという方もいるかもしれませんが、このように日本は日本でその地形に最適な大筒という兵器を作り出してしっかりと運用しています。

その上、壁を突き崩す攻城戦が主流になり、大砲が用いられた時代にも大筒が用いられているあたりに大筒という兵器の柔軟性に気づくはずです。おそらく、現代戦における歩兵が持ち運べる小型の大砲である迫撃砲代わりに使われ続けたのでしょう。

さらに、大鉄砲の中には多くの弾丸を袋に含み、銃腔につめて発射する散弾もあったらしく、これを千人殺しと呼んだそうです。当時の鉄砲は作りがシンプルであったために発射する弾丸の種類を問わなかったので、非常に使用の幅が大きかったようです。

ちなみに、お隣の中国では明の永楽帝の時代に『神槍』と呼ばれる7ミリの弾丸を二十発つめて発射する、火器のみを装備していたという点で世界初と呼ばれる部隊『神機営』が存在していたそうなので、それなりに有効な使い方であったことがわかります。

幕末でもそれなりに戦果を挙げたことから、決して無能な兵器ではなかった、と言う言葉でこのカテゴリーは締めさせていただこうと思います。


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