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。それは戦史を語るに際し、避けて通れないのが拠点という存在です。人々は敵を防ぐために壁に囲まれた場所に逃げ込み、敵を退けてきました。これらの拠点を城と言います。

城

城とはなんでしょうか。塔がいっぱい立ってるレンガのアレとか、天守閣がそびえる石のアレとか思い浮かべるかもしれません。ですが、その定義は正しくありません。

城とは、壁とその中の土地のことを指します。つまり、壁で防御した範囲が城なのです。城にはいくつかの種類があります。まず、大きく分けて平城と山城です。

平城は平地に存在する城です。建物の周りに壁を囲めば立派な城です。平地にあるので攻めやすく、あっさりと陥落する弱い城です。寺とかもある意味で城扱いであり、信長も本能寺にこもって、それなりの防御戦を演じています。結構重要です。

平城の長所は通行の便利さであり、商業発展や情報流通などの面で優位を確立できます。さらに、広い城が構築できるので、気合を入れればかなりの堅城も作れます。

山城は、それなりの高さにある山の上に作った城です。こちらは柵で平らな部分を囲み、その中に拠点となる建物を設置して、柵の後ろには置き盾を配置して準備完了となります。

つまり、防御施設としては使い捨てなものが多いのです。恐ろしく貧弱に見えますが、実はかなり驚異的な城です。積み上げた土は矢や鉄砲を防ぎ、放火にも強い。自在に動く防御施設は攻撃が難しく、柵が相手なので隙間から攻撃し放題です。

さらに山の一部を城砦化しているため、そのままでも難所なのです。突破は非常に難しいものでした。

弱点は、防御力の代わりに利便性を捨てていることです。戦国武将の中には、普段は平地に屋敷を構え、戦になると山城にこもるという方々もいた模様。

さらに、山のサイズには限度があるため、大きさが限られてしまいます。兵力に制限が出てしまうわけです。さらに、山は動かせないので建設場所が限定されるという問題もあります。

最大サイズの城としては城砦都市があります。これは世界史的には普通の存在で、都市の周囲を壁で囲み、その周辺に農地を用意するというのがユーラシアの常識的都市の在り方でした。

政治中枢と貴族や商人たちを都市の中央に置き、壁で守ります。壁の外には面積を使う農地を用意し、農民を住ませます。

敵が攻めてきたら農民を壁の中に入れて、守ると同時に戦力にします。これが城砦都市です。古代世界では城砦都市ごとが政治単位であり、その一つ一つが重要な意味を持っていました。

つまり、城は戦略単位なわけです。どこそこの都市が寝返ったとか、戦記を読むといくらでも出てきます。複数の都市を支配するものが大君主なわけですね。

日本ではどうでしょうか。実は、日本は世界史的に見て例外とされる状況が多々見られます。日本は、基本的に城砦都市を持ちません。

村が壁で覆われたりとかはよくありますが、城砦都市のようなものではないのです。城は山の上に使い捨ての防御施設を構築すれば物足ります。

適当な壁、適当な防御施設で充分ことたりました。何しろ、山と森がいくらでもあるので、防御戦がやりたければそこでやればよかったのですから。中世日本で妙に寺院が影響力を持っているのはこれが原因の一つです。

日本で城が重要になってくるのは鎌倉末期からです。初めて強力な城の防御力で多勢を撃退した英雄として、楠木正成がいます。彼は数百の軍勢で十万の幕府軍を撃退しました。

その後の戦いでは城が重要な意味を持っていくことになり、それなりの防御力を持っていた拠点である武家屋敷の存在価値は地に落ちることになります。昔はそれで十分だったのに、です。

戦国時代では山城が主流になります。小谷城などをはじめとする有名な城もすべて山城であり、山を改造しただけの城でした。石の壁や天守閣は幻想です。あるところもありましたが。

戦国中期以降になると、平城が増えてきます。石の壁などが活躍をはじめ、平地にも堅城が次々に築かれていきます。

そして、ついに城砦都市が登場します。小田原城です。十キロ以上の長さをもつ防壁は、小田原を覆い強力な城砦都市として難攻不落の名を欲しいがままにしました。

小田原城は武田信玄や上杉謙信という名将からの包囲に耐え、秀吉の天下統一までその存在を誇示し続けます。

有名な大阪城も城砦都市でした。大阪をぐるりと包み込む三段防壁は、天下の兵を集めた徳川家康でも攻撃をためらわせたほどです。

最強の城砦は城砦都市でした。これは近代になっても変わらず、日露戦争においては旅順要塞が日本軍死者の大半を製造するなど、その力を発揮し続けたのです。



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