戦国紫電将のトップページに戻る




トップページ
サイト紹介
戦国考察コンテンツ
オススメ
リンク

戦国時代の騎馬武者部隊について


さて、今回は騎馬武者部隊について考察したいと思います。今回、この考察を行う動機は、戦国時代の騎馬隊について本などで論争が存在していたからです。それらについて気になったことがあったので、備忘録的に考察しようと考えています。


戦国時代の騎馬武者部隊について

まず、すでに聞き飽きたと言っていいほどの内容ですが、武田騎馬軍団の否定についてから入りましょう。これは否定されて久しい内容ですね。知名度に比して、一級資料からは武田軍の保有していた騎馬隊について何の記述もないことが、否定派の最大の攻撃理由です。

これについては何の文句もありません。私も記述は見たことがありませんし、何より騎兵に関して言えば武田は特に見るものはありません。そもそも、武田の領地は山が多く平地が少ないので騎兵の育成に向きません。兵力比でも騎兵比率は関東平野を支配する北条に及びません。武田騎馬軍団に関して、私がケチをつけるところはありません。

では、次に騎乗戦闘についてはどうでしょうか。これは結構否定派が多いのですが、私は絶賛肯定派です。細かいことは昔の考察でも述べていますが、騎乗戦闘は有利な点が非常に多いからです。

もちろん、弱点も多く持ち合わせますが、必ず下馬して戦っていたというのはかなり穿った見方だと考えています。とりあえず、否定派の方は一度でいいので雑兵物語でも読んでほしいところですね。

問題は運用の主目的ですね。私は騎兵突撃をそれなりに行っていた(南北朝時代でもよく見られた)と考えているのですが、最近読んだ本ではかなり妥当な考察を行っていました。突撃に関しては否定し、騎乗戦闘は肯定していたのですが、運用の主目的を追撃、撤退、運搬としていたのです。

たしかに追撃、撤退に関しては多くの史書でそれらしいことを言及しているので中々的を射た意見だと思います。運搬に関しても、現代のサラブレットが平地以外でまともに機動できないのに対し、日本の馬は山岳地帯でも余裕で運用できると聞いたことがあります。人と物資を運搬するためだけに存在したという方もいます。

誰も否定しないであろう要素で私が追加したい運用は指揮ですね。高い位置にいれば味方が見つけやすいので司令塔になりやすいですし、高い位置にいるので遠くを見れて現状把握もしやすくなります。私は騎兵突撃アリアリな主張の持ち主ですので少し相容れない意見ですが、まぁ共存はできなくなさそうです。



さて、では今回の考察の本題に入りましょう。まず、騎兵隊と騎馬武者部隊についてです。これは中世近世と近代での騎兵運用についての大きな違いなのですが、騎士や武士のような騎乗した兵士と近代騎兵には大きな違いがあります。

騎士や武士は身分の高い人間が馬に乗って戦った存在であったのに対し、騎兵は馬に乗って戦うことを義務付けられた兵士だったことです。

つまり、近世の騎兵は、中世の騎士や武士とは違い、より組織化された存在だったわけですね。騎兵の武器である機動力を最大限に生かすために騎兵中心に組織され、数千から数万で動き回ります。

対し、中世の騎士や武士は歩兵を連れて動くことが多く、馬に乗った強力な戦士であるだけで、機動戦闘はあまり採用しなかったようです。

中世までの間に騎兵隊(近代的な意味での)を組織したのは遊牧民族やその系譜を持つ国、それらと敵対した国であり、モンゴルのような遊牧国家、イスラムのような元遊牧国家、中国のような遊牧民と戦い続けた国家が騎兵隊を組織した様子が伺えます。

ただ、中国も古代では戦車の周りを歩兵で固めていたので、農耕国家はどこも同じような思想を持っているようです。

さて、騎兵突撃の代名詞である騎士ですら騎兵隊を組織していなかったような描写を多く見かけましたが、果たして本当に騎兵隊による騎兵突撃はなかったのでしょうか?

騎兵の突撃による心理的ショックはかなりのものであり、それを採用しなかったというのは少し考えにくいです。歩兵と騎兵が突っ込んでくるだけでも大きいでしょうが、それでも騎兵のみの突撃の方が凄まじいはずなのです。

ところで、古代についてはどうでしょうか。アレクサンダーやハンニバルは両翼の騎兵を最大限に活用し、騎兵のみで編成した騎馬隊で勝利を重ねています。ですが、中世でそれが行われていないのはなぜか。古代と近代、中世の間にはどのような差があるのでしょうか?

答えは封建制にあると思います。そして、それで全て説明がつくとも思われます。まず、古代と近代は権力が中央に集中しやすく、全部隊を指揮官が掌握しています。そのため、騎兵を騎兵のみで編成し、その機動力を活かした戦術がとれるわけです。統一的な訓練も比較的やりやすかったはずです。

対し、封建制はリーダーの軍隊と多数いる配下たちの連合軍です。多数の指揮官の上に最高指導者がおり、部下はそれぞれの領地から集めた兵士たちを率いて戦います。土地をもらって上司のために兵隊を引き連れていくわけですから、全員が集まって組織的に訓練するのは古代や近代に比べて大変だったはずです。ようするに、組織に問題があったわけですね。

さらに、戦国時代には備(そなえ)という陣形があります。戦闘に鉄砲や弓を置き、その後ろに槍を置き、後方に騎馬武者を置いて戦闘の単位とします。この備を複数寄せ集めたのが軍になります。戦いにおいて、部隊は備ごとに動きます。有力大名たちがそれぞれ備えを率い、リーダー(織田信長や武田信玄のような)にしたがって自分の領地から連れてきた部下を率いて戦います。

つまり、一つの備ごとに独立した勢力なわけです。上の人間に有力大名たちが従属しているだけなのですね。戦場で裏切るのもよくある光景で、完全な指揮下にあるわけではありません。賤ヶ岳の戦いにおいて柴田勝家は、部下の有力大名である前田利家に戦線離脱された事で敗北を決定付けられてしまいます。指揮は完全に一元化されてはいないわけです。

軍隊はそれぞれの配下の所有物であるため、部下から兵力を抽出するのは一苦労です。そのため、騎兵のみを集めた部隊を編成するのは困難だったはずですし、軍事費は領地を与えられた有力大名たちの自己負担であるため、呼び出して統一的な訓練をするのも難しかったはずです。そう考えると、全部隊の騎兵のみを抽出して近代的な騎馬隊を編成するというのはあまり現実的ではありません。

ただし、戦国時代の武将はこの問題をそれなりに解決はしていました。一万石に届かない弱小武将などは、自分の連れてきた部隊を解体される憂き目にあい、一兵卒として戦う事を余儀なくされていたのです。

これは『備を立てる』という軍隊編成方式です。有力大名は部下の土地持ち連中の部隊を分解し、兵科ごとに再編成する権限を持っています。

例えば、三十人程度でやってきた宮代という後北条の武将は自身を含め八騎の騎兵を連れて参戦しましたが、合計五百騎で構成される騎兵部隊に編入されています。合理的な諸兵科連合が備の単位で構築されていたわけですね。

結局、有力大名による備ごとが戦略単位なわけで、全軍の騎兵がひと固まりとかそういう事はありませんでした。戦国時代の軍組織は中世を脱し、近世的になっていたものの、近代軍への脱皮までは出来ていなかったようです。

さて、ここで近代的な騎馬隊と中世の騎馬部隊の差が見えてきます。古代や近代では騎兵を一まとめに運用できたのに対し、中世や近世はそれが難しかったことがうかがえてきます。

そして、戦国時代において妙に騎兵集団の描写史料が少ないのも騎兵単独での活躍があまりにも小さいからではないでしょうか。そして、それは騎兵部隊の単位が小さかったことも理由でしょう。

実際、騎兵のみの編成は存在しました。備には備ごとに後方の騎馬隊を置き、機動戦や追撃戦に用いられていました。ただし、単位の多くは二桁や三桁です。なぜなら、備ごとに騎兵を分散させているので、一つの騎馬武者部隊の数は少ないのです。

純粋な騎馬武者部隊はきちんと戦国時代には存在していました。南北朝時代で大流行した大太刀を用いた騎兵部隊突撃も、戦国時代でも生き残ってはいます。

上杉謙信は四十騎で二万の敵につっこみ、雑兵物語では三十〜五十の騎兵が敵部隊を壊走させたと述べています。源平の時代のことではありますが、二百に近い騎馬武者が一丸となって馬筏を組み、敵前渡河を敢行しています。

ただ、それらの騎馬武者部隊は近代的な騎兵部隊では決してありません。日本で近代的な騎兵が生まれるには、フランスから帰ってきた秋山好古の活躍を待つ必要があります。つまり、明治以降ということになります。

ただし、騎馬隊は存在していました。単位は多くが二桁や三桁だったと思いますが、純粋な騎馬武者だけの部隊は存在していたのです。そして、彼らの活躍はあまりに局地的であったために、記述が少ないだけなのです。

結論として、私の意見は騎馬武者による騎乗戦闘はあり、騎兵突撃はあり、騎馬隊は存在し、騎兵戦術は実際のものではあるが、近代的に組織された騎兵隊や騎馬軍団は存在しないというのが最終的な総括となります。

根拠は備の編成に純粋な騎馬部隊が存在していることや、雑兵物語で騎兵部隊の突撃描写が存在していることなどがあげられます。



次に進む



コンテンツ

TOPに戻る