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本願寺家の戦闘教義


戦国大名の中でもバリバリの宗教勢力である本願寺をはじめとする仏教勢力は、他の戦国大名と比較しても異質な力を持つ勢力でした。無限に増殖する兵力と集まり続ける資金と物資はあまりにも膨大で、信長による天下統一の最大の障壁として戦国史にその名を轟かせています。それでは、本願寺家を筆頭にする一向宗の戦闘教義、戦術と軍隊を見てみましょう。



『戦術面』
鉄砲活用
一向一揆

『軍隊面』
門徒徴兵
一揆誘発
傭兵常備軍


本願寺家は軍事的な視点で見るなら、織田家唯一のライバルと言っても過言ではないでしょう。貿易港である堺を押さえるために織田家以上に鉄砲を得やすい地勢にあり、装備の近代化は織田家以上。さらに、雑賀や根来といった傭兵集団を雇い入れる傭兵制度を導入し、織田家に近い戦闘教義を持つ最新鋭軍集団でした。では、見ていきましょう。



------------ 一向一揆による大攻勢------------

仏教伝来以降、日本の寺というのは宗教勢力の根城であり、ただの宗教施設などではありませんでした。堀をめぐらせ城壁を建て、はっきり言って城といっても過言ではないものがいくつもあります。

僧兵と呼ばれる宗教戦士を寺は多く保有しています。彼らをRPG風に例えるのであれば聖騎士、パラディンとでも言ったところでしょう。武力を持つことで寺院は政治的に大きな力を持ち、独立勢力として活動します。

平安末期から戦国時代まで、この傾向は変わりません。そして、その武力は織田信長の天下統一において大きな壁になります。中立を保たず嫌がらせを続ける比叡山を信長が焼き討ちにしたのは、このような事情があったからです。

戦国時代最大の勢力を誇ったのは浄土系の一向宗でした。本願寺家の主である本願寺顕如は多くの門徒を持つ宗教界の大人物であり、キリスト教で言うところのローマ法皇でした。門徒は彼の言うことには絶対服従であり、現世権力ではなく神聖権力で顕如は国中の一向宗を操ることが出来ました。

そこで有名なのが一向一揆です。本願寺一向宗に逆らう大名たちに対し、顕如は門徒による反乱をたびたび起こさせました。これが有名な一向宗による一揆、一向一揆です。理屈ではなく、感情が起因となる宗教による扇動は、現世権力に縛られた人を自在に操ることが出来たのです。

加賀、三河、そして長島。各地の一揆勢力は幾度となく蜂起を繰り返し、現地大名を苦しめます。一揆軍には戦いのプロである現地の地侍、戦場で足軽経験のある農兵、そして素人連中が混成軍を組んで戦います。決して武器を持たない素人の農民だけで構成されていたわけではありません。

誰も彼もが来世の救いを求めて戦うために、現世の命を惜しまず戦う一揆勢は勇猛果敢で死を恐れず、強兵が多いのが特徴です。さらに、無理やり兵役で引っ張られるわけではないので動員力も異常であり、加賀における一向一揆ではなんと十万の兵が動員されています。

宗教が原因での蜂起なので、君主と臣下の間柄が良好でも一揆は起こります。犬のように忠実と揶揄された三河武士ですら、三河一向一揆に参加し、家康に楯突いています。ここには多くの悲劇もありました。

ある武将など、蜂起をしておきながら戦場で家康が敵に殺されそうになるのを見て動揺し、身を挺して家康を守り、味方に殺されて絶命しています。

大量の兵力を叩きつける一向一揆ですが、弱点もあります。兵士の質では優れており、配下も戦闘のプロが多いのですが、何しろ集団訓練をまともにしていない連中も多く、個々では問題がないのですが、集団行動だと問題が多く発生してしまいます。

結果、優れた敵将相手だと一揆は失敗しやすく、朝倉最強武将である朝倉宗滴は一万の兵力で十万の加賀一向一揆を撃破、信長は大虐殺を実行することで長島一向一揆を鎮圧しています。

しかし、それでも人海戦術を操る一揆は強力でした。多くの戦国大名がその配下将軍を一向一揆で失っており、信長などは親戚を幾人も一向宗との戦いで殺害されています。門徒徴兵による一揆誘発戦略は、非常に強力なものだったのです。



------------最新装備の近代軍------------

遠隔地である加賀一向一揆や三河一向一揆に比べ、大阪や長島などの本願寺軍は最新装備に身を包んだ近代軍でした。貿易港の堺を押さえ鉄砲を豊富に持ち、『傭兵常備軍』制度を導入することで一年中戦える自由な部隊を手にしていました。

本願寺家の鉄砲隊は雑賀衆を中心に組み立てられ、そのリーダーである雑賀孫一は大阪左右の将とまで呼ばれ、顕如の片腕として多くの戦場を戦います。

旧式軍である地侍や農兵もそれに協力し、素人の農民たちも数の力で本願寺家を後押しします。プロから素人、最新から旧式全ての力を動員した本願寺は、宗教という一つの柱で一致団結し、長い年月を信長と戦い続けます。

しかし、信長は得意の機動戦で敵対勢力を次々と滅ぼし、孤立した本願寺は最後の味方である毛利の援助まで失うにあたり、信長に降伏します。以後、一向一揆はなりをひそめましたが、顕如は処刑されることなく、本願寺は以後二つに分裂し、東本願寺と西本願寺は現在も存在している宗教団体として日本の宗教法人の一つに名を連ねています。



------------本願寺家戦闘教義の総括------------

最新式の鉄砲を大量に導入し、近代的な傭兵制度を採用しておきながら旧来の制度も全て活かし、まさに総力戦体勢を作り出したのが本願寺家の戦闘教義でした。

もし、彼らがいなければ織田家による統一過程はもっと早い段階で達成されていたことは間違いありません。そして、織田に並ぶ近代軍制を早い時期に確立できた家は織田家系列国家以外では本願寺しかいないあたり、本願寺の戦闘教義はいかに優れていたかがわかります。

彼らの悲劇は同じ近代制度を確立した織田信長が戦略戦術の達人であったことでしょう。条件が同じなら将軍の質と量が勝負を決めます。きら星のごとく名将を抱える織田家に、本願寺はすりつぶされるようにして敗北してしまったのでした。



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