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長宗我部家の戦闘教義


四国を統一した英雄、長宗我部元親の率いたその軍隊。四国では無敵を誇った長宗我部家戦闘教義、戦術と軍隊を見てみましょう。


『戦術面』
挟撃戦術

『軍隊面』
一領具足
水軍運用

長宗我部家は土佐の弱小勢力でしたが、元親の代になり一気に拡張します。その傍らには元親の軍事行動を支える頼もしき地侍の姿が常にありました。しかし、彼らは旧式の軍隊であり、近代化した本州の武士たちとの間には大きな差があります。では、見ていきましょう。



------------神速の動員力------------

土佐の長宗我部家最大の特徴は一領具足(いちりょうぐそく)と呼ばれる軍事制度です。長宗我部元親の四国統一の傍らに、常に存在し続けたこの兵士たちの存在は、元親を四国の戦国大名の中でも特に際立たせるものでした。

一領具足は、平時には田畑を耕し、農民として生活をしている半農武士です。彼らが普通の半農武士と違う点は常に一領(ひとそろい)の具足(武器、鎧)を携えて畑仕事をしているという所です。そして、これが他の半農武士と大きく違う結果を生みます。

一度召集がかかると、一領具足は農作業を放棄し、主君の下に駆けつけます。彼ら半農武士がなぜ一領具足と呼ばれるかというと、正規の武士であれば予備を含めて二領の具足を持っているが、半農半兵の彼らは予備が無く一領しか具足を持っていないので、こう呼ばれていたそうです。

これらの軍事制度は長宗我部家のみの専売特許ではなく、家康も同様の制度を持っています。そして、徳川家と同様の武器を長宗我部は持っていました。そして、それが長宗我部家を四国統一まで導きます。

いざ、戦争を始めようと考えた際、戦国大名は領地の人間を招集する必要があります。普段、農作業をしている農民たちの動員には時間がかかり、かといって職業軍人である正規武士のみでは戦力が圧倒的に足りません。

そのため、戦争を始めるまでにはどうしても時間がかかり、だからこそ相手も敵の戦争準備に合わせて体勢を整えることが出来るのです。しかし、一領具足は違います。呼ばれた瞬間戦闘準備に入れるため、動員速度が異常なほど早いのです。これが、長宗我部家最大の武器でした。

四国統一において、長宗我部家はほぼ全ての戦いを兵力優勢で戦っています。大抵、敵の二倍以上の兵力を持っていました。これは長宗我部家の動員速度に他家がついていけず、兵力が整わない状態で長宗我部家との対決を強いられたというのが理由です。神速の動員速度を誇る長宗我部家は兵力の優位さでゴリ押しし、他家を圧倒し続けました。

しかし、四国統一までが長宗我部家と一領具足の最盛期でした。中央では一領具足よりも動員力に優れた、常に戦闘状態に入れる常備傭兵制が大流行しています。動員速度で敵を圧倒する長宗我部家の大戦略は、大量の常備軍を保有する秀吉に対抗できず、今までとは逆に兵力優位でゴリ押しされ、その栄光の終わりを迎えます。

中世式軍制からわずかに脱却した長宗我部家の一領具足。しかし、完全な近代化を果たした本州の大名にはかなわずに終わるのでした。



------------卓越した外線作戦------------

元親が得意とした戦術にはある特徴があり、それは兵力を二分にするというものでした。二つの軍隊が別行動をし、予定戦場で合流して敵を包囲殲滅します。元親は幾多の戦場をこの『挟撃戦術』で乗り切ります。

四万十川の戦いにおいて、兵力優勢を誇る元親は対岸の一条軍を渡河攻撃する必要がありました。そこで、別働隊を上流に派遣し、敵の兵力分散を強要して、敵の兵力が減ったところを強行渡河し、勝利を得ています。

八流の戦いでは兵を二分し、海沿い、内陸の二方向から安芸軍を攻撃。壊走させています。別働隊が動いた経験はまだまだあります。そして、その多くが自然生涯である川や海の近くで行われています。

中富川の戦いでも、香宗我部親泰隊の渡河にあわせて、一万四千の主力が南東より、別働隊が西南より進み合計一万七千が両翼から攻撃を開始。これに長宗我部元親と和議を結んでいた、一宮城城主一宮成助、桑野城城主桑野康明ら六千兵を率いて、黒田ノ原から中富川に押し寄せ十河軍を撃退しました。

このように、元親は分散した兵力で敵を包囲する機動戦を得意としていました。さらに、川などの地形を利用して戦う敵に対し、不利な状況でも連戦連勝できる一領具足による数の優位があるため、兵力分散の悪影響が少なかったため、元親はこの戦術を多用できたのです。



------------脅威の土佐水軍------------

四国は海に囲まれた地勢であるため、非常に水軍が発達していました。後に大日本帝国海軍において日本海海戦で参謀を勤めた秋山弟が四国出身であったことは当然の成り行きかもしれません。

毛利水軍ほど有名ではありませんが、長宗我部家も水軍を保有し、それは元親の四国統一に多大な貢献をしました。大兵力を率いる元親は部下を養う大量の兵糧を運搬するのに積極的に水軍を用いました。

四国は中央が山がちになっており、人が住むのはたいていが沿岸部分であるため、本州以上に水軍の兵糧移動が重要になったのです。さて、実はこの水軍にはある面白い逸話があります。早速紹介しましょう。

小田原の役において、元親は長宗我部水軍を率いて参加します。そんな時、体長九尋の鯨が浦戸湾に迷い込んできました。これを元親は数十隻の船団と百人余の人夫でもって大坂城内へ丸ごと持ち込み、秀吉や大坂の町人を大いに驚かせたそうです。

後に、この水軍は朝鮮討伐にも参加しており、朝鮮水軍や明水軍を相手に死闘を繰り広げることになります。



------------元親個人の戦術能力------------

元親は数による力押しを得意とする、数の力を理解しきった戦国大名でした。似た武将としては信長が秀吉がおり、戦場で相手を圧倒する兵力を用意できたという点で、優れた戦略能力を持つ武将だったと言えるでしょう。

ちなみに、一領具足の制度を作ったのは元親の父である国親であり、彼は息子に大きな贈り物が出来たということでしょう。一領具足は傭兵と違い、地域密着型の兵士であるため、非常に剽悍であり、元親は数と質の二つを併せ持った軍隊で四国を駆け巡ることが出来ました。

戦場では兵力分散からの包囲戦術を得意とし、河川などに陣取り地形の有利を持つ敵を幾度となく撃退する戦上手でした。

個人的な戦場での嗅覚にも非常に優れており、それは子供時代のエピソードからも伺い知れます。父親の国親が千の兵を率いて二千五百の敵と激突していた時、この戦いに初陣で参加した元親は五十の兵を率いていました。

おとなしい性格の元親は周囲からバカにされていましたが、ここぞというタイミングで敵の弱点を看破。手勢五十騎を引きつれ敵中に突撃し、七十の首を上げる戦果をあげ、自らも二人の敵兵の首をあげました。

装備と軍事制度は旧式のものでしたが、元親本人の持つ戦術能力は、決して後進地域だからと侮れるものではないでしょう。



------------長宗我部家戦闘教義の総括------------

一領具足という新制度を持つ長宗我部家は四国において最強の戦闘教義を持つ国でした。圧倒的動員力と神速の動員速度で他の戦国武将を圧倒した長宗我部家は四国統一を果たし、戦国史上にその名をとどろかせます。

しかし、無敵を誇ったのは四国の中だけであり、外に飛び立とうとした元親はさらなる近代化を成し遂げていた秀吉ら本州勢力に哀れなほどあっさりと敗北します。

織田信長は彼を「鳥無き島の蝙蝠」と呼びました。そして、それはあまりにも的確でした。四国において唯一空を飛翔した元親は、本州を飛び回るタカやワシを前に、敗北を喫したコウモリだったのです。

とは言え、最強連中に勝てないというだけで長宗我部家の戦闘教義がダメなものであったわけではありません。近代化武将以外に一領具足は対処が難しい勢力であり、この制度を持たない国はそれだけで不利を避けられなかったでしょう。

近代軍には遠かった。しかし、最も近かった。一領具足は空に浮かぶ雲を掴もうと必死になって生きた長宗我部家が、駆け上った坂の頂だったのでしょう。雲には届かない、それでも坂の下よりは高い位置。もし、近代軍が確立していない状況であれば、元親はさらに高みへ上ることが出来たであろうと私は考えています。



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