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海将・李舜臣


朝鮮最大の英雄の一人である李舜臣について考察を開始したいと思います。戦争の全局面にわたり日本軍と互角以上に戦った彼の戦術能力の高さを否定する人間はいないでしょう。では、朝鮮水軍の能力とあわせて見ていきましょう。

海将・李舜臣

------------劣悪な環境と旧式の武装------------

文化・軍事関連の諸事情において、朝鮮半島はかなり微妙な位置にあります。貧弱な大地は大した量の食料を供給せず、日本軍撤退の一因となるほどでした。大した地下資源もないため、占領する価値のない場所であると言い切れます。

しかし、地政学的にみると朝鮮半島は戦略の要地です。日本海と黄海を分断する位置にあるこの国は日本からロシア、中国にいたるまでの重要な通り道であり、貿易の要衝ともなります。地形的には山がちな北と平地の多い南で分かれており、南の方が比較的肥沃でした。実際、日本軍は南のほうでは活発に活動しています。

当時、重要兵器として知られる火薬は戦争においてなくてはならないものでした。しかし、中国はこれを国の秘密として秘匿しており、一部の人間しか製造法や使用法を知りませんでした。これが後に災いし、後金軍のヌルハチが中国を制圧しようとしたとき、火器において優越しているはずの明帝国が火器を使いこなせずにヌルハチに敗北しています。

さて、このような事情から明の属国である朝鮮は大した火器を持ちませんでした。それどころか、朝廷に対して献上された火縄銃を無視するほどです。実は、中国や朝鮮では武人がさげすまれ、文人が尊重されます。武は下等な人間が考えるべきことなのです。結果、朝鮮は戦争技術が発達しない土壌になっています。

使用する火器は前世代のもので、火薬の力で矢を飛ばす火砲や、手で火縄を押し付けることで弾を発射する手砲がせいぜいでした。ちなみに、手砲をはじめて戦場で効果的に使ったヤン・ジシュカが戦術革命を起こしたのは1300年代のフス戦争、いかに朝鮮が遅れているかがわかります。

しかし、中国の影響で大型砲を持っていたことが朝鮮に幸いします。日本は優れた火縄銃を持っていましたが小銃が大半であり、大型砲をほとんど持っていません。結果、矢や石を飛ばす旧式の火砲でも射程と威力の面で優越できたのです。これが海戦の勝利につながります。



------------貧弱な土地だからこそ------------

そして、微妙な土地柄であったことが朝鮮の益となります。加工が容易で軽く優れた素材である杉や檜を朝鮮は大量確保できませんでした。そこで、硬くて加工しずらい松で船を作ります。これが朝鮮の役において大きな意味を持ちます。

頑丈で重量のある朝鮮船は防御力で和船を優越し、さらに複数の火砲を載せても転覆しません。結果、火力に優越する朝鮮水軍は戦争の初期、日本水軍を圧倒します。しかし、それは日本軍が大砲の運用を始めるまででした。

技術力に優越する日本の大砲を前に、朝鮮水軍の火砲では対抗するのが難しいです。結果、日本が大砲を出してきた以降、朝鮮の勝率が大幅に低下します。

しかも、日本は朝鮮型の船をコピーします。和船相手ならまだ大砲相手でも数の多い火砲で対抗できますが、同じ船で相手が大砲だと勝ち目がありません。実際、まともに会戦して朝鮮水軍は全滅しています。



------------李舜臣の戦術と性格------------

李舜臣は徹底して勝てる戦いしかやらない人間でした。戦闘の大半で戦力優勢を確保し、貧弱な和船を率いる日本水軍を撃滅しています。しかも、狙うのは大抵輸送船であり、徹底した補給線妨害を信条としています。

李舜臣が戦った海戦の内、敵軍が圧倒的優勢であったのはたったの一度です。しかも、十倍の敵を相手にしたその時は、相手が大砲を一門しか積めない中型の関船であり、火砲の数で優越していました。

必ず相手より必要な部分で超越して戦う。勝てる戦いのみ中心で行う。それが李舜臣の強さでした。その証拠に、少しでも被害が出そうになると即座に撤退を決めます。大砲運用を始めた日本軍に対し、バカな突撃をすることはありません。



------------二度にわたる大勝利------------

李舜臣の戦いの中で特に素晴らしいのは、脇坂安治の抜け駆け部隊と大会戦を行った『閑山島海戦』と、十倍の敵を相手に負けなかった『鳴梁海戦』です。

閑山島海戦は実に見事な戦いでした。狭い水域に脇坂を誘い出した李舜臣は広い出口を塞ぎ、相対的戦闘力を高めて脇坂を包囲殲滅します。その被害は63隻。生き残りはただの10隻で李舜臣の56隻には大した被害はなかったそうです。まだ日本が大砲を運用していないからの結果でしょう。

逆に、大砲を得た後の戦いが『鳴梁海戦』です。藤堂高虎の中型艦130隻に対し、李舜臣12隻。しかし、これは鉄で覆われた亀甲船であり、その戦闘能力は日本軍がコピーした朝鮮式大型船を速度と装甲で上回ります。ガレー船であるために沿海戦闘しか出来ませんが、誘い出したのは沿岸部。さぁ、いざ海戦です。

しかし、圧倒的な数を前に李舜臣は防戦一方となります。味方と引き離されることを恐れる李舜臣は円陣を組み、碇をおろしてその場に留まり、側面に積んだ火砲で遠距離攻撃します。

対するは日本の中型船です。細長いガレー船に対し、横に長い帆船はこの海域に入ってこれません。そこで中型の帆船のみが攻撃に参加したのです。なぜ、日本が不利な中型船のみで戦いを挑んだかといえば、李舜臣の亀船の数が原因です。12しかいないそれを全て撃沈できれば、日本の制海権掌握は完璧となります。

そのため、李舜臣の部隊そのものが撒き餌となりえたのです。日本は中型船のみで艦隊決戦を決意しました。しかし、中型船は大砲を一問しか積めませんし、全艦が積んでいたわけではなかったでしょう。加えて、積んだ大砲の口は正面を向いているわけで、側面を向けた戦いでは大砲の射撃が出来ません。全方位から射撃できる亀船はその意味でも優位でした。

大砲に劣るとは言え、大量の火砲と厚い装甲は李舜臣の艦隊の被害を最小限にとどめました。ダメージこそ受けましたが、沈没は無しです。対し、藤堂は30隻を失い、ダメージを抱えて撤退します。亀船は追撃しませんでした。出来ませんでした。それほどまでに、ダメージを受けていたのです。

十倍の敵に包囲された海戦で、敵を撃退した戦例を私はこれ以外に知りません。つまり、李舜臣はそれほどまでに稀有な戦術能力を持つ将軍だったのです



------------世界四大提督って誰?------------

日本のみならず、世の中の人は世界何大なんとかと言って楽しむ傾向があります。軍事史においてもそれは変わりません。陸では世界三大英雄、海では世界三大提督と楽しげに語っております。

世界三大英雄は、チンギス・ハン、アレクサンドロス、ナポレオンの三人です。西洋だと黄色が嫌いなようで、チンギス・ハンの代わりになぜかユリウス・カエサルが入ります。理解できません。別に新式の戦闘教義を確立しわけでもないのに、、ちょっと疑問です。

どうしてもこれらにとりあげるなら、新式の戦闘教義を確立して軍事史を塗り替えるだけのことをしてもらわなくては嘘というものでしょう。さて、では次に世界三大提督を見ていきましょう。

東郷平八郎、ネルソン、ジョン・ポールの三人です。「え? ジョン・ポールって誰?」との声が聞こえてきそうですね。私も詳しく知りません。米英戦争の英雄らしいです。アメリカ人を無理やり組み込もうとする意図を感じます。

実際、三人あげるなら東郷・ネルソン・ドレイクの三人でしょう。基本的に海戦は16世紀まで大規模な軍事改革はなく、ガレー船同士のぶつかりあいが基本でした。少々の軍事改革はあっても、それほどではなかったのです。

対し、上記の三人は違います。乗り込み戦術を砲撃戦術にシフトさせたドレイク。敵の横っ腹を食い破り、敵の縦陣を分断して乱戦するネルソン・タッチを開発したネルソン。そして、敵前でターンし、相対戦力を高める新戦術を開発した東郷ターンを生み出した東郷。誰もが後の海戦のスタンダードを作った提督です。

このように相対的な戦力差などよりも、後の基本となる新戦術を構築した将軍が世界的には称えられています。ですので、ジョン・ポール・ジョーンズには是非とも退場いただきたいのが個人的な主観です。

さて、本題。実は韓国では世界四大提督なる人間が存在します。テミストクレス・ドレイク・ネルソン・そして我らが李舜臣です。

待ってください、なぜ東郷がいない。妥協しているものだと、ネルソン・ジョン・李舜臣で三大提督になっています。意地でも日本を消したいらしいですね、いやらしさを感じます。

しかし、入れたい気持ちもわからなくはないのです。李舜臣は極東ではじめて砲撃戦闘教義を開発した人間だからです。すさまじき天才と言えましょう。でも、それはドレイクが先に西欧で確立しています。李舜臣は車輪を再発明してしまったのです。しかもガレオン船という最新兵器ではなく、旧式のガレー船で。

李舜臣は確かに偉大な戦闘教義発案者です。しかし、それは車輪の再発明にすぎず、しかも軍隊は世界の二流で、しかも大砲さえ持ちません。

遅すぎた天才、生まれる場所を間違えた悲劇。それが、『世界四大提督』たる李舜臣に私が送りたい言葉です。



------------最大の謎・露梁海戦------------

さて、戦史考察に戻ります。日本と連合軍の最終戦。この戦いは最高司令官の李舜臣将軍が死を秘匿して士気低下を防ぎ、大勝利した戦いと伝えられています。

ですが、ちょっと待ってください。本当に李舜臣が指揮をしていたのでしょうか。ありえません。この戦いで李舜臣は100隻しか船を持たず、主力は間違いなく560隻を保有する明水軍。しかも、宗主国様である明の将軍が朝鮮の将軍ごときの指示にしたがうでしょうか。それこそありえません。

結果、最後の海戦は明の将軍が指揮したと考えるのが妥当でしょう。ただ、もし彼が有能なら李舜臣の言葉に耳を傾けたはず。この戦いの発案者が李舜臣であった可能性は否定できません。

というか、たぶんそうです。敵の進路を把握して待ち伏せ、挟撃につなげる手並みは見事の一言。李舜臣発案ならうなずけます。李舜臣指揮下というのは絶対にないでしょうが。

しかし、強化された日本軍はこの包囲を打ち破り、離脱したあと再激突に持ち込みます。これは連合軍の主力が旧式の明型ジャンク船だからと考えられます。しかも、外洋戦闘なので朝鮮艦隊は必殺の亀甲船を持ちません。船と大砲の質で圧倒する日本軍は、半分近い数でありながら、大奮戦します。まるで初期の朝鮮水軍のように。

結局、勝利は連合軍のものと言われていますが、日本軍は誰一人指揮官を失わず、連合軍は明軍副将と李舜臣を失います。朝鮮側の資料では、李舜臣はネルソンのパクリ的な死に様をさらしています。ですが、実際は怪しいのもいいところです。

中国の資料では敵船を引きつけた島津軍の一斉射撃で李舜臣は殺害されています。日本の資料によると、小型船で乗り込んできた日本軍に惨殺されています。

ただ一つ確かなことは、この戦いで李舜臣は死亡し、日本は一人として指揮官を失わなかったということだけです。勝利者や損害などは、未だに謎に包まれているのです。



------------亀甲船の栄光と末路------------

李舜臣の栄光を語るのに欠かせないのが亀甲船です。実際、外洋を行動する日本軍と戦うのに李舜臣は亀甲船を多くの場合置き去りにしていますが、それでも李舜臣といえば亀甲船でしょう。

戦闘場所を選ばない喫水線の高い帆船は、どこでも戦うことが可能で、大重量でも行動できる船でした。しかし、その動きは遅く、風によって機動力を左右されます。

しかし、ガレー船は手漕ぎであるためにいつでも快速です。細長いために水の抵抗も弱く、しかも狭い水路でも活動可能です。実際、李舜臣の亀甲船を追撃すべく狭い水路を追いかけた日本軍は、中型船の関船以外でそのあとを追うことが出来ませんでした。

ですが、ガレー船にも弱点はあります。喫水線は低いために波の強い外洋に出ることができず、その活動範囲は沿岸部に留まります。しかも、人力でこぐので重量にも制限が出ます。

そのため、砲撃戦の時代になると、過去の補助戦力であった帆船がガレー戦と主力艦の位置を入れ替えます。ちなみに極東だと事情が違い、主力艦は昔から帆船とガレー船の混在で、どちらもいける的な船が多かったようです。

さて、亀甲船は鉄の装甲を持つガレー船でした。その活躍は沿岸部に限定されましたが、上部を装甲で覆っており、しかも刃を並べているために乗り込み格闘戦が出来なくなっています。つまり、完全な砲撃仕様の船なのです。

砲撃戦特化のこの船は、乗り込み主体の日本軍を大いに苦しめました。砲撃戦に戦術をシフトさせた後も、その快速を生かして日本を苦しめます。しかし、外洋にいけないので外洋の日本相手には何も出来ず、制海権の奪取の役には立てませんでした。

これが李舜臣の悲劇につながります。最終決戦において、李舜臣は亀甲船に乗れませんでした。装甲艦を失った李舜臣の末路は哀れです。船の装甲で李舜臣の接近を耐え抜いた島津義弘は、釣り野伏せの要領で李舜臣を討ち取るのです。

中国の資料によると船からの一斉射撃、日本の資料によると側面から機動する小型船による乗り込み攻撃。もし後者だとした場合、亀甲船ならありえない事態です。つまり、李舜臣は亀甲船から下りたことで、その生涯を閉じることになったのです。

ちなみに、この戦いにおいて参加した日本の将軍の兵力は、動員数を残す史料によると最大で一万七千。日本の大型艦が140人乗りであることを考えると121隻分の人数です。中型、小型が多いと考えても500隻は多すぎると思うので、私はこの戦いの日本側兵力を300と主張する意見を採用しています。



------------海将・李舜臣の統括-----------

李舜臣は東アジアにおいて、東郷平八郎が登場するまで最高の海将の一人でした。しかし、彼の頭の中にあった新戦術はすでに他人が創造したものであり、艦隊の旧式差から世界史レベルであったかと言われると疑問と言わざるを得ません。

しかし、その能力は決してまがい物ではなく、今に生きる人間に多くの教訓を残しました。韓国はその活躍をゆがめて伝えていますが、そこに成長はありません。全ての要素を冷静に把握することが、戦史から教訓を読み取るために必要な姿勢です。

ですので、どうか感情的にならず、素直な目で戦史を眺め、これからの時代に役立てて欲しいと考えます。戦争の教訓など戦争の役にしか立たないというのは勘違いです。国家戦略を理解すれば、どの政党が正しいかがおのずと見えてくるはずで、投票を行う時の助けになるでしょう。

戦国武将たちが血を流した末に残した教訓が、今の日本人の助けになる事を心から祈っています。



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