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海戦の経過 |
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さて、朝鮮出兵海戦編です。朝鮮出兵の失敗原因とまでされる海戦は、やはり日本敗北が目立ちます。では、見ていきましょう。 ----------------文禄---------------- 01『玉浦沖の戦い』海戦● 02『第一次安骨浦の戦い』海戦● 03『合浦・赤珍浦の戦い』海戦● 04『泗川沖の戦い』海戦● 05『唐浦の戦い』海戦● 06『唐項沖の戦い』海戦● 07『栗浦沖の戦い』海戦● 08『閑山島海戦』海戦● 09『第二次安骨浦の戦い』海戦● 10『釜山浦の戦い』海戦○ 11『熊浦港の戦い』海戦○ 12『第一次長門浦の戦い』海戦○ 13『第二次長門浦の戦い』海戦○ ----------------慶長---------------- 14『釜山の戦い』海戦○ 15『漆川梁の戦い』海戦○ 16『於蘭浦沖の戦い』海戦● 17『第一次珍島の戦い』海戦● 18『第二次珍島の戦い』海戦● 19『第三次珍島の戦い』海戦● 20『鳴梁の戦い』海戦● 21『順天城の戦い』陸海両戦○ 22『露梁海戦』海戦● 集計すると、7勝15敗で完全な負け越しですね。でも、実はこれって数字の手品みたいなもので、実際はそこまでひどくないんです。少し確認してみましょう。 まず、文禄の役ですが、これは被害大です。日本軍の進軍が平壌で止まったのは李舜臣による補給線断絶によるものです。制海権を奪われた日本は衝突力を失い、碧蹄館で明軍との戦闘を余儀なくされています。 しかし、文禄の役後半は事情が変わってきます。度重なる敗北で日本軍は水上戦術を改良し始めており、後半四戦は李舜臣相手に全勝しています。実は、李舜臣が戦争に大きな影響を与えたのは『第二次安骨浦の戦い』が最後になるのです。 慶長の役は日本軍の独壇場でした。朝鮮と日本の船の長所と短所を組み合わせた日本軍は弱体化した朝鮮水軍を殲滅します。解放された李舜臣が10隻の亀甲船で奮戦しますが、制海権を奪取するまでいたりません。というか、李舜臣の勝利はほとんど小競り合いであり、勝利が戦況に大きく影響しにくいのです。積み重ねが大切でした。 彼の最後の大勝利である『鳴梁の戦い』で、二度目の大打撃を秀吉に与え、制海権を奪われて慶長役は失敗したという方もいますが、信じられません。この戦いで失われた船は中型船30隻であり、日本の大型船はおろか、新造した朝鮮式大型船にも被害は皆無なのです。日本は慶長の役において、撤退を決めるまで制海権を握り続けます。 ですが、完全にではありません。李舜臣は珍島に引きこもり、徹底して12隻の亀甲船を守りぬきます。日本は制海権を握りながらも、それを脅かす可能性のある朝鮮水軍を恐れ、護送船団方式を採用し続けます。これが補給に影響を与えた可能性は否定できませんが、制海権は日本のものでした。 この状況は、戦史に詳しい人なら類似例が見つかるでしょう。そう、日露戦争による旅順攻略戦です。日本が制海権を握る海上ですが、日本より弱体とは言えロシア艦隊は日本の補給戦を脅かすことができます。日本艦隊は自身より弱体な艦隊が要塞に篭り続けているために、要塞攻略まで制海権を確立しきることができませんでした。 つまり、同じです。海上優勢を握ってこそいましたが、制海権の完全掌握にいたっていなかったのです。ですから、李舜臣はそういう意味ですさまじかったのであり、決して中型船30を失った日本が同時に制海権を失ったのでは決してありません。 そして、李舜臣が活躍を見せるのは最後の追撃戦である『露梁海戦』のみです。待ち伏せで始まり、二倍の戦力を保有していた連合軍ですが、なぜか連合軍側にのみ将校の死亡が集中しています。勝ちを疑う結果ですね。 おそらく、力関係から李舜臣は指揮権を奪われていたのではないでしょうか。『漆川梁の戦い』のダメージを回復しきれず、船数が100しかないのも目に付きます。 このように、文禄の役序盤以外、朝鮮水軍は制海権の確立が出来ていませんでした。文禄の役後半から秀吉の撤退、明水軍の到着までの長きにわたり、制海権は日本軍の手の中に握られていたのです。ですが、撤退を決定し船舶数が減少したことで、日本は制海権を手放してしまうのでした。 統括して見ると、有力な朝鮮水軍の力を吸収し、強化された日本に朝鮮水軍は対抗しようがなかったという構図が見えてきます。しかし、亀船を利用した局地戦に関しては無敗であり、やはり李舜臣の戦場勘はすさまじかったと言ってしまえるでしょう。 次に進む 前に戻る |