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馬筏(うまいかだ)


大量の騎兵を同時に扱い、敵前渡河を強行することを成功させる戦術のことを馬筏といいます。 古代から現代まで、多くの戦いが川の周辺で行われました。川は陸軍の動きを阻害する力があり、そのために国が防衛線に設定することが非常に多いからです。

馬筏

戦国時代においても川中島、姉川、手取川など名勝負の舞台に事欠きません。それほど川は、戦略上必要なものでした。 古代の兵法書も言い続けているように、川は防御側にとって非常に有利なものになります。川を渡る敵は機動力が落ちる上に隊列が乱れるため、迎撃する側は少ない兵力でこれを容易に向かい撃てます。

しかし、戦史を見てみると川というものは最終的に突破されて防御側が敗退するという例も珍しくはありません。アレクサンドロスのヒュダペス川の戦いでは敵前を迂回して渡河、敵であるポロスの軍隊を撃破することに成功しています。中国なら天下無双の韓信が奇襲的に渡河した挙句、背水の陣で防御側を撃滅しています。

逆に、防御側勝利の有名例は長篠の戦いでしょう。川を正面にし、馬防柵の中に引きこもった信長側の三段撃ち(あったとすれば。近いものはあったと思われる)によって武田軍を撃退しています。

さて、川を目の前にして向こう側にいる相手を撃滅したい武将は勝利のためには複数の選択肢を持ちます。軽く列挙してみましょう。

@普通に力押しするか、隙を突いて正面から強行渡河。
A敵の隙を付き、相手の視界の外で渡河。
B強行渡河させて味方を不利な状況に追い込みわざと撤退、追撃してくる敵に渡河を強行させ撃滅する。

とまぁ、こんなところでしょうか。

@については愚策と思われるかもしれませんが、兵力に差がありすぎる場合は結構成功します。兵力が少なくても、姉川の戦いなどでは奇襲渡河に成功し、織田軍の油断を突いたために勝利目前までいったという説もあります。

Aはどちらかというと常套手段です。真正面からわたる必要はどこにもないので、味方の動きをうまく偽装して主力を川の向こうに移動させます。上記のヒュダペス会戦や、川中島の戦いにおける上杉軍の機動がそれに近いでしょうか。

Bは名将韓信の戦術です。強行渡河してわざと撤退し、追撃してくる敵を迎え撃つことで優位な体勢を作りました。さらに韓信は川の水をせき止めて流れを弱めておき、双方の渡河を容易にした上で、敵の渡河中に堤防を決壊させます。渡河中の敵は溺れ死に、渡河し終えた敵は皆殺しにされます。川向こうの敵は増水した水を前に渡河を試みることは不可能。まさに、韓信面目躍如と言ったところでしょうか。

ちなみに、日本では島津による耳川の戦いで川向こうまで無理矢理引っ張り出して撃破という似たようなことをやっています。川の水で敵を流したりなどはしていませんでしたが。


さて、本題に入りましょう、馬筏ですね。馬筏は@の強行渡河に該当します。流れの速い川を渡河する際、騎兵が一騎では流されてしまいます。そこで、騎兵の集団によってお互いがお互いを助け合い、渡河するのです。

川を突破する騎兵の塊がまるで筏のように見えるため、馬筏の名で呼ばれるようになりました。 強い馬は上流側を、弱い馬は下流側を渡ります。馬の足が底に付くときには馬自身に歩かせ、底に付かない場合は泳がせて進みます。

流されそうになったら側にいるものが弓を伸ばして、その弓の端に取り付かせるようにし、肩を並べて一丸となり渡河します。

渡っている間に弓を射ると馬筏が崩れるので攻撃はしません。兜を前に傾けて防御面積を増大させ、直角ではなく斜めに渡河することで水の抵抗を弱め、流れに乗って渡ります。

このような戦術を現代に伝えるものとしては、源平合戦における宇治川の戦いが上げられます。 平家物語によると1180年、足利忠綱という十七歳の若武者は坂東武者三百を従え、先頭に立って敵前渡河を強行します。 三百騎は一騎も流されずに渡河に成功し、彼らの仲間である他の平家側勢も続々と後に続いたと言われています。


ここで話を変えますが、私が発見した日本における騎兵単独運用の最大数がここに記録更新されました。

雑兵物語の証言や上杉謙信の騎兵四十騎における二万人の敵中突破では二桁だったのですが、ここでようやく三桁、しかも三百もの騎兵の同時使用を確認しました。

まぁ、戦国時代ではなく源平合戦、つまり平安末期なのが少し残念ですが、日本における騎兵運用について少し明るくなっただけでも由とします。


この文章が、日本の歴史に多大な貢献をし続けた日本在来馬に正当な地位を与えることになることを祈りながら、この項目を終わりにさせていただきたいと思います。





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