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徳川家の戦闘教義


織田、豊臣と続いて、最後の三英傑である徳川家を見ることにします。豊臣の天下をひっくり返し、二百年の太平を生み出した徳川家の戦闘教義、戦術と軍隊を見てみましょう。


『戦術面』
精鋭先陣
誘引戦術
別働隊戦術
戦場内応
火力攻城

『軍隊面』
一領立て
赤備え



正直、徳川家は歴史で果たした役割に対して非常に地味なので、あまりとりあげるところがありません。ですが、無理のない軍隊だからこそ、天下を取る力を身につけられたのかもしれません。では、見ていきましょう。


------------旧式の三河武士------------

まず、家康の軍隊から見ていきます。中世型から近世型へ脱皮した織田軍に比べ、徳川家は依然として旧体制の時期が長いのが特徴です。傭兵制ではなく農民と地侍の集合軍で、時代の進展に従い織田家のように兵農分離を進めていきます。

兵農分離前の徳川家は『一領立て』と呼ばれる地侍が主力でした。一領立てとは侍たちの名であり、普通の武士が二領の鎧を持つのに対し、一領しか鎧を持っていなかったことからこの名前がついています。

どこかで聞いたことがあると思った人は鋭いです。実は土佐の『一領具足』と同様の制度で、北関東の結城氏の『一疋一両』、大和・河内の『半具足』など、この時代には半農の武士が非常に多かったのです。

呼べば答える彼らは戦力の欲しい戦国大名にとって、頼りになる存在でした。裕福でないために武装は貧弱ですが、農作業で鍛えられた筋力や高い忠誠心から、彼らは強兵の名を欲しいがままにします。

中でも三河武士は犬のように忠実であり、君主に対する忠誠心を揶揄されるほど。実力も『三河兵一人は尾張兵三人に匹敵する』と呼ばれるほどの強兵でした。

家康は彼らを非常に信頼し、自分のために命を捨てられる三河武士が五百いればそれで十分とまで言い残しているほどです。

織田の近代化に飲まれ、少しずつ制度は変わっていきましたが、徳川が天下にその強さを示せたのは強兵で知られる三河武士がいたからこそ。織田の勝利に多大な貢献をし、家康を天下人に押し上げた背景には、常に彼らの献身が存在していたのです。



------------織田家との軍事交流------------

織田家にべったりな事大主義外交方針を採っていたことで徳川家は有名でした。言うなれば、中国に対する朝鮮のような関係です。この同盟は信長の死まで続き、死後も信長の息子を援護するなど、実に長生きな同盟でした。

しかし、徳川家の戦闘教義を見ていると、そこまで織田家から影響を受けたようには思えません。もちろん、最新兵器の鉄砲や大筒、槍や鎧などは影響を受けていますが、戦術面での影響があまり多く感じ取れないのです。

これには弱兵運用を強いられる織田家に比べ、兵質が平均以上であった徳川だからこそ、そこまで戦闘教義を吸収しなかったというのがあるのかもしれません。

実際、徳川は武田に対する関心が強く、石川数正が軍事機密を抱えて秀吉に寝返った際、三河流の戦闘教義を捨て、武田信玄の甲州流に戦闘教義を改めたというエピソードすらあります。

ちなみに、徳川の先陣を任される井伊直政は武田より上杉が好きらしく、越後流の方がいいと言って周囲を困らせたことがあったそうです。



------------徳川家の戦闘陣形------------

徳川家の戦闘陣形は武田滅亡後に、ある特徴的な陣形を取るようになります。それは、武田家滅亡後に編制したある部隊の存在によって生み出されました。その部隊の名は『赤備え』、戦国最強とまで呼ばれる部隊でした。

武田家において最強部隊の名を欲しいままにした『赤備え』は、全員が赤い甲冑を身に纏った部隊でした。目立つ赤という色は誰の目にも移りやすく、彼らが逃げ出せば部隊全体が崩れます。そのため、精鋭以外にそれを纏うことは許されません。

井伊直政は武田の遺臣を部下に組み込み、赤備えを復活させます。有名な井伊の赤備えです。徳川最強のこの部隊は常に徳川家の先陣として戦場で戦い、その武功から直政は『井伊の赤鬼』とまで呼ばれました。

徳川家の戦闘陣形の特徴は赤備えを前面に押し出し、相手の陣形の乱れを待ち、そこを付くというものです。小牧長久手、小田原、関が原、大阪の陣と、赤備えは家康にとって重要な、戦国後期の戦い全て先陣として参加しています。

精鋭部隊を戦闘に押し出して敵の陣形を乱す『精鋭先陣』はナポレオンが使用した戦術でもあり、その威力は実証済みといったところでしょうか。とてもではありませんが、弱兵揃いの織田家には不可能な戦術であったと言えるでしょう。



------------学習された武田家のお家芸------------

家康は野戦におけるすさまじき強さから、野戦の家康の異名を持ちます。とはいえ、勝率が高いだけで野戦指揮官としては並以上と言った程度ですが、ここ一番での強さが家康の真骨頂と言えるでしょう。

しかし、家康は武田家にのみ一度敗れています。そして、それは武田家のお家芸によって仕組まれたものでした。

武田の得意戦術に『きつつき戦法』と呼ばれるものがあります。資料によっては武田の得意技は『釣り野伏せ』とありますが、少しごっちゃになってますね。ここでは、戦略的誘引が『きつつき戦法』、戦術的誘引が『釣り野伏せ』とします。

要するに、きつつき戦法というのは敵を自分の想定の戦場に引っ張り出すための『誘引戦術』です。武田信玄は城にこもる家康を戦場で叩きのめすべく投石部隊で挑発、城から出てきた家康を三方が原でボコボコにしました。

戦略的に敵を誘引し、自分の想定した戦場で敵を撃破する、これがきつつき戦法の真骨頂です。そして、家康はこの誘引戦術を自分の生涯の中で幾度か使用しました。

具体的に言うと、長篠・関ヶ原・大阪でこれを行いました。長篠では勝頼に築城陣地の攻撃を強要。関ヶ原では石田三成を撃滅すべく、挙兵を促して三成を戦場に誘引。想定戦場こそ三成の思い通りになりましたが、結果的に三成の討滅に成功します。

大阪の陣では大阪城の堀を埋めて場外での決戦を強いることに成功しています。戦場での駆け引きを戦術、戦場外での駆け引きを戦略という言い方に従えば、戦略的誘引戦術である、きつつき戦法の真髄を家康は見事に受けついだということができるでしょう。



------------学習された武田家のお家芸A------------

徳川家がコピーした武田家の戦術としては、別働隊戦術があげられます。武田家は部隊の一部を別働隊として動かし、挟撃することで敵を撃滅する戦術を用いることがよくありました。徳川はこれを積極的に取り入れ、戦場での勝利を希求します。

別働隊戦術が用いられた有名な戦いとしては、まず第一に小牧長久手の戦いが挙げられます。この戦いの折に、迂回機動に出た秀吉の分隊に対して、家康は別働隊を用いることで見事に撃滅します。

かの有名な長篠の戦いにおいても派遣した別働隊が武田家の退路を断っています。失敗こそしましたが、関ヶ原においては徳川秀忠を別働隊として戦略機動を行わせました。

このように、徳川家は織田家よりの外交をしておきながら、戦術は武田家から取り入れていました。そばにいる味方より、敵からの方がより多くを学べたということでしょう。



------------外交と戦場------------

さて、世界史を俯瞰した際に気づくのは、戦術の天才はいつか滅び、戦略や外交の達人が最終的に勝利するという展開です。ハンニバルはローマに滅ぼされ、項羽は劉邦に破れ、ナポレオンは対仏連合に屈しました。

戦国史上、最大の外交家は間違いなく秀吉です。敵の調略をはじめとして、次々と相手を外交的に屈させ、織田家の勢力を拡大。豊臣家の時代も諸将をことごとく降伏させ、天下統一を成し遂げました。

秀吉に比べると、家康は小者です。小牧長久手では戦術的勝利を得ておきながら、秀吉の外交戦術に屈し、その部下になることでしか生き残ることが出来ませんでした。

しかし、家康はその後に大きく成長します。義理深く、下の人間に対しても敬語を使い続けたという人格が、彼の外交戦術に大きなプラスを生み出します。そして、秀吉に比べて家康は格下でしたが、秀吉亡きあと家康に対抗できる外交能力を持つ者など、当時の日本には存在していませんでした。

卓越した外交能力を持つ家康は、秀吉の死後は無人の野を行くが如しでした。そして、彼の外交は戦場にて大きな効果をあげます。

普通、敵の一部を味方に引き入れる内応という外交戦術は戦場以外で起こる現象です。秀吉でさえ、賤ヶ岳の戦いにおいて前田利家を中立に置くのが精一杯でした。しかし、家康はこれを上回る内応劇を見せます。

有名な関ヶ原の裏切りです。家康の側面を突ける位置にいる武将たちは中立を守り、三成の側面を突ける部隊が戦場で内応、裏切りにより勝負は決します。秀吉ですら、戦場で大規模な裏切りを誘発することは出来ませんでした。

外交能力において家康は秀吉の下に位置します。しかし、それでも『戦場内応』という歴史を変える外交戦術を用いた時点で、家康の外交能力は誰からもケチをつけられないものになったと言えるでしょう。



------------時代を塗り替えた攻城戦術------------

意外と思われるかもしれませんが、日本という地域は城塞という点に関して後進地帯もいいところでした。世界各国の古代から、農耕民族は城壁に囲まれた城塞都市に暮らし、城でもある都市の中で敵を防ぎながら生活していました。

そのため、都市を攻めることは城を攻めることと同義であり、東西の差なく、大規模な攻城兵器による攻城戦が行われました。巨大な弩であるバリスタや投石機が活躍し、梯子車などが兵士を城壁の上に輸送しました。

では、城とは何か。はっきり言ってしまえば壁で囲まれた場所です。強固な壁なら城、貧弱な壁なら砦といった程度の差かありません。壁の材質は石だったり、土から作ったレンガだったりします。

堀った土を盛り上げただけでも城壁になります。そもそも、城という漢字が土から成ると書く時点でさして知るべしと言ったところでしょうか。とにかく、歴史上多くの地域で強固な城と攻城兵器の激突が繰り返されます。

さて、日本に視線を向けましょう。実のところ、大陸から隔離された島国というのは独特の文明展開を見せやすく、日本もその例外ではありませんでした。日本はとかく山がちな地形であり、山はそれだけで防御兵器として機能します。

他地域にとって城とは生活空間で繰り返し使用するものすが、日本のそれは消耗品でした。日本の武士は通常、背の低い屋敷に済み、籠城を行う際は山の上に避難します。木の伐採された山の上はちょっとした要塞になっており、敵の侵入を防ぐために木の柵を用意しています。壁ではありません、すき間だらけの柵です。

山の上にあるために敵は攻城兵器を持ってこれませんし、そもそも持ってません。必要ないのです。敵は柵の後ろに置き盾を並べて臨時防御線を構築するだけなのですから。

こうして、日本の城は臨時避難所として活躍し、柵と盾に囲まれ、それらの防御兵器は消耗品でした。石やレンガの壁を巨大兵器で突き崩す必要などなく、そのために攻城兵器の発達はありませんでした。

この傾向は室町時代前期まで続きます。まともな攻城戦は行われないまま時間は経過し、せいぜい簡単に乗り越えられる程度の屋敷の壁が敵兵士をさえぎる防壁として活躍した程度です。わざわざ攻城兵器を持ってくるまでもありません。

しかし、戦国時代になると話は変わります。小谷城などの旧式山城だけでなく、城を防壁や石垣で囲ったまともな平城が普及し始めたのです。これは攻城兵器で突き崩す必要のある城でしたが攻城兵器の伝統がない日本でまともな攻城兵器が出現するわけもありません。

結果、焙烙火矢と呼ばれる手榴弾による火攻めが中心になります。鉄砲導入後だと、鉄砲が壁を破壊し始め、大鉄砲が城壁を打ち砕くようになります。若干威力不足ですが、数で攻めれば押し切れます。実際、なんだかんだでいくつもの城が落城しているわけですし。

ただ、この状況が一変することになります。朝鮮出兵の影響です。軍事技術において圧倒的に劣る朝鮮・明の連合軍ですが、ひとつだけ日本を上回る要素がありました。それが大砲の存在です。

攻城戦に特化したこの大砲は、城砦にこもる日本軍を大いに苦しめます。陸海で大砲の威力を痛感した日本軍はこれを積極運用し、日本での戦いでも役立てます。

この大砲を最も巧みに活用したのが徳川家康です。彼は『火力攻城』という戦闘教義を日本の戦いに導入しました。ちなみに、これは世界的に見て普通の戦術であり、ようやく日本も取り入れたという程度のものでしたが。

大砲を積極活用した攻城は、城に対して非常に有効なものでした。中世の城は重要拠点ほど高い位置に作られ、それを集中砲火することで敵の首脳を狙い撃ちにできます。

そのため、近世の城は北海道の五稜郭のように平らで重要拠点がわからないつくりになっているのですが、日本の城はすべてが中世の旧式城塞です。大砲に弱く、大砲の攻撃をろくに体験していないためにその攻撃に対する備えがありません。

大砲の火力は大阪城内を破壊し、秀頼の母の侍女を殺害します。この攻撃に恐れをなし、大阪側は徳川と講和することになります。

戦国時代の新兵器である大筒が戦局を塗り替えた歴史的瞬間でした。鉄砲・鉄甲船・大筒は、戦国を塗り替えた三大新兵器であると私は考えています。



------------家康個人の戦術能力------------

秀でたところは見つけ出しにくいですが、傾向として敵をうまく動かすという戦術が得意なようです。そして、何よりも『待てる』という彼の性格が彼を勝利へと導きました。

がっちりと持久戦の構えを見せる家康に対し、秀吉も迂回行動という誘惑に勝てず、その部隊を徳川軍に撃滅されています。

戦術外の点では秀吉の寿命を待つ、関ヶ原の後、天下の実権を握るまで十四年待ってから豊臣を滅ぼすなど、機会を捉えるまで迂闊に動かなかったことこそが、彼の勝利の一因でしょう。

ただし、結構短期なところもあり、三方が原では味方の静止を振り切って出撃し惨敗。関ヶ原では息子の別働隊を待たずに決戦。動かない小早川に銃撃して怒りを示す。大阪では真田の突撃で本陣を乱され、首を取られるなら腹を切るとのたまうなど、血の気の多い三河武士っぷりを見せ付けています。

比較的常識的な将軍だが、機を見るに敏。家康を評するなら、この言葉がふさわしいと私は考えます。



------------徳川家戦闘教義の総括------------

織田家という先進国に接しながら、徳川家は独自路線を行った面白い国であり、その戦闘教義は独特なものでした。

徳川家の特徴をまとめるならば、持久・先陣重視・敵軍誘導の三つでしょう。強力な精鋭部隊を編成し、戦いを有利に展開するなど、他の家には見られない戦い方も行っています。

天下泰平を気づき上げた徳川でしたが、大阪の陣では多くの名将を失い、その戦術能力は極端に低下していました。幕末になるとその戦闘教義は大幅に劣化し、将や兵の質もどん底に落ちます。

それでも、日本の戦国時代を代表する徳川家の戦闘教義は、今日でも大きな意味を持つものだと私は考えています。



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