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島津家の戦闘教義


最強の戦国武将は誰という話になった時、必ず名前があがるであろう島津義弘を擁したのが島津家です。その武勲は戦国史上でも特に飛びぬけています。では、島津家の戦闘教義、戦術と軍隊を見てみましょう。


『戦術面』
釣り野伏せ
車撃ち
穿ち抜き
捨てがまり


『軍隊面』
鉄砲偏重
侍積極活用



日本の最南端に位置することから貿易が盛んなこの国は、日本に鉄砲が伝来した地とされる種子島に近く、鉄砲使用が非常に盛んでした。鉄砲の扱いも日本一上手く、彼らに対抗できるのは雑賀衆や根来衆くらいだったのではないでしょうか。では、見ていきましょう。



------------侍と足軽と鉄砲------------

島津家は常備傭兵制を導入していない旧体制の中世的編制の軍隊で、本願寺や織田家関連大名以外ではごく平均的な部隊編成をしています。しかし、九州男児という言葉があるとおり、九州の兵は勇猛なことで有名です。

中でも、薩摩の兵士たちは剽悍でした。兵質でいうなら上杉や武田に追随する勢いでしょう。ド田舎なので兵たちが優秀に育つのです。中国でも辺境兵一人は中央兵三人に匹敵すると言われたので、世界中どこもそんな感じなのでしょう。

さて、そんな島津家ですが、島津兵は戦国最強という言葉を良く耳にします。事実です。しかし、それは後半に限ったことであり、前半はさすがに甲州兵、越後兵に遅れを取るかもしれません。
島津の強さの真骨頂は兵ではなく、侍と鉄砲の関係にあります。普通の戦国大名は最新兵器で最重要なこの鉄砲を、鉄砲足軽に配りました。普通の足軽より身分の高い鉄砲足軽は、雑兵たちの中でもエリート的な存在でした。

しかし、島津に常識は通用しません。最重要兵器の鉄砲。島津家は、これをなんと侍たちに使用するよう命じたのです。最強の兵器は最強の兵士が使うべし。理屈ではわかりますが、侍は下級〜中級指揮官をする人間たちであるべきなので、これを最前線で使うと言うのはそれなりにリスクがあります。

ですが、島津はそれをやり遂げました。結果、島津の鉄砲隊は他家に比べて異常なまでに錬度が高く、それが島津の勝利に多大な貢献をしました。

侍に鉄砲を持たせた島津家の軍隊の兵質は、間違いなく戦国史上最強です。錬度が違います。もし、間違って兵質で越後・甲州兵に薩摩兵の質が遅れを取るような事態があっても、それはあくまで雑兵の話であり、侍を含めた兵質では確実に薩摩が最強でしょう。



------------お家芸・釣り野伏せ-----------

島津家と言えば、ご存知『釣り野伏せ』です。これは誘引伏撃戦術で、島津が何度も使用し幾多の勝利をあげてきた必殺戦術であり、島津を語るに際し、忘れてはいけない存在といえるでしょう。

部隊の一部を伏兵として配置、本隊で敵を攻撃してわざと撤退。追撃して陣形の乱れる敵を伏兵が攻撃、本隊も反転して敵を包囲殲滅する戦術です。

島津家は重要な会戦のほとんどをこの戦術において勝利を決めました。しかも、敵より劣勢でこれを幾度と使うので、戦力差でみた戦闘成績において島津に匹敵する戦国大名はいないといっても過言ではないでしょう。



------------島津家独特の鉄砲戦術------------

侍を中心として鉄砲隊を編制していることから、島津家は独特の鉄砲戦術を持つことで有名です。錬度の高い職業戦士である侍が鉄砲を持つことが多かったからこその現象と考えられます。

まず、第一に『車撃ち』です。これは射撃間隔のために攻撃に使用しにくい鉄砲射撃の弱点を補う戦術です。鉄砲隊で横陣を組み、それを数列並べます。先頭が射撃すると後ろの兵士が前にでて射撃を行います。この陣形の特筆すべき点は、攻撃と移動が同時に出来る点です。

この戦術は西欧でも使用され、カウンター・マーチと呼ばれます。これを生み出したのはオランダのマウリッツで、テルシオ研究の最中に生み出されたものでした。先頭が射撃すると戦闘は後ろに回り、後ろの兵士が交代で射撃、後ろに回ります。

この射撃方法だと敵から遠ざかってしまうという欠点があります。後に、この射撃方式の攻撃力を高めるべく、グスタフ・アドルフは回転を逆にし、先頭が射撃すると最後尾が前に出るようにしました。つまり、島津の車撃ちと同じ方式です。

このように、島津の車撃ちは西欧戦術最先端の先をいっていました。グスタフ・アドルフが活躍する三十年戦争が1615年からはじまったことを考えるなら、これがいかに先進的であったかがわかるでしょう。

第二に『穿ち抜き』です。これは縦陣突破戦術です。敵の横隊に対し、機動力と突撃力に優れた突破陣形である縦陣を組み、敵陣を食い破る戦術です。突撃前に鉄砲射撃をして景気づけしたようです。

最後は『捨てがまり』です。『かまり』とは伏兵を指す言葉で、これは撤退時に鉄砲隊を置き去りにして伏兵にする戦術です。追撃してくる敵から本隊を守るために伏せたり座り込んだりした鉄砲隊が追撃部隊を射撃、死ぬまでそこに留まり敵の追撃を遅らせます。

関ヶ原では穿ち抜きによる敵中突破、そして捨てがまりによる遅滞戦術の組み合わせで、見事義弘を戦場離脱させています。

鉄砲を握り締めるのが雑兵ではなく侍であったからこそ、驚異的な粘りを見せることができたのでしょう。




------------島津家戦闘教義の総括------------

編制面では中世的でありながら、侍に鉄砲を持たせることで兵質を極限まで高めることに成功したのが島津家でした。

最南端にあるために鉄砲の入手が容易で全軍の鉄砲比率が高かったというのも見逃せない点でしょう。

旧式編制に奇抜な武装配備、そして充実した最新兵器。これらの要素が島津家の特徴であると言えるでしょう。



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