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大友家の戦闘教義


戦国時代後期、九州を三分割した勢力によって、九州三国時代が幕を開けます。島津・竜造寺と争った最後の一国が大友であり、三家の中でも最大の勢力を誇りました。では、大友家戦闘教義、戦術と軍隊を見てみましょう。


『戦術面』
釣り野伏せ
小部隊別働戦術

『軍隊面』
大筒運用


島津ほど特徴のある家ではありませんでしたが、大友はなかなか地味に優秀な武家でした。どちらかというと将軍の質に頼りがちなところはありましたが、鉄砲を大量に抱える島津でさえ持っていなかった大筒を入手するなど、決して決定的に劣っていたわけではありません。では、見ていきましょう。


------------豊富な最新兵器------------

戦国時代において鉄砲と言えば織田信長、これが一般的なイメージでしょう。しかし、戦国時代が好きな人間なら大抵知っているでしょうが、これは誤りです。

火薬を用いた新兵器は火薬発祥国中国、火器の扱いについて世界最先端の西欧が支配する南方から運ばれてきました。そして、中国への道と南海への道は九州によってふさがれています。つまり、九州はもっとも貿易に有利な位置に存在しているのです。

そして、北九州には博多という巨大な貿易港が存在していました。結果として、九州に根をはる勢力は最新兵器である鉄砲を大量に装備することが可能であり、戦国時代の中でも特に強力な勢力が巣食う地域でした。

戦国後期、九州は三つの大勢力が相手の隙をうかがう三国時代を形成します。有名な九州三国志です。島津・大友・竜造寺の三家が気を吐いていたこの時代、最強勢力は間違いなく島津でした。

鉄砲伝来の地である種子島の側にいる薩摩の島津は新兵器である鉄砲の量で周囲を圧倒していました。それが、弱小勢力であった薩摩を巨大に変えます。そして、全国平均を上回るとは言え、それらの点で大友、竜造寺はわずかに不利でした。

しかし、大友家はキリスト教の宣教師と仲が良く、貿易を有利に進めることのできる環境がありました。大友はポルトガル船を利用して城攻めの際に大砲による艦砲射撃をさせたりと、外国勢力となかなか上手くやっていたようです。

特筆すべきは日本で最初に大筒と呼ばれる大砲を手に入れたことです。これは国崩しと呼ばれる後装砲で、その威力は戦国時代においても最強の一角と言えます。

織田信長でさえ大筒の配備では大友に遅れを取り、信長の大筒を見た宣教師は『私の知る限り、日本で大筒を持っているのは大友氏だけだったはず』的な発言をしています。

後に大友は島津に侵攻されますが、その防御戦闘に際し、国崩しは攻め寄せる島津に大きな打撃を与え、その勢いを削ぐことに成功し、本土から侵攻する秀吉の援軍を間に合わせることができました。

ちなみに、大筒が全国的に普及するのは秀吉による朝鮮討伐を待つ必要があります。ここで敵の大筒の威力を知った大名は奪った大砲を持ち帰ったり、自作したりと一気に保有量を増やします。

特に徳川家康は西欧のカルバリン砲を輸入・作製し、大阪の陣で活躍させます。これは前装砲と呼ばれる作りの大筒で、大友の後装砲である国崩しを上回る威力を持つものでした。



------------必殺・釣り野伏せ------------

島津ほど頻繁に使ったわけではありませんが、大友方の武将も釣り野伏せを利用することがありました。具体的に言うと大友最強武将である立花道雪がその使い手であり、他の武将も使っていた傾向があります。

そもそも、本隊で挑発し、伏兵のいる地点まで敵をおびき出すと言った戦術は比較的世界中で使用された戦術であるので、大友が使っていても不思議ではありません。ただ、島津はその中でも使用率が異様に高かったというだけの話です。



------------本隊から切り離された小部隊------------

大友特有の戦術としては、本隊から切り離した小部隊を有効活用する点です。これは非常に有効な戦術として有名な二つの戦いの勝敗を決定付けましたが、小部隊を見捨てて全滅させる必要があるという非情の戦術で、決して多用したわけではありませんでした。

この『小部隊別働戦術』は、まず毛利との戦いで使用されました。北九州を巡る毛利と大友の戦いは、決着の付かない泥仕合を延々と続ける状況でありました。お互いに決め手がなく、それぞれ背後の敵を気にして一向に勝負がつきません。

そこで大友が動きました。小部隊を本隊から切り離し、それを毛利の拠点である中国地方に派遣したのです。本拠を突かれた毛利方は体勢を崩し、戦争の勝利は大友のものとなりました。ただし、別働隊は駆逐され、悲惨な末路をたどりました。

次にこの戦術が使われたのは島津の侵攻戦においてです。九州三国時代は長くは続かず、大友と竜造寺がそれぞれ、島津名物釣り野伏せで主力を撃滅されたことで、島津による九州統一戦が開始されてしまいました。

総大将を殺害されていた竜造寺はあっさり島津に降り、弱体化した大友は島津の侵攻を受けます。単独での勝利は不可能と悟った大友は秀吉に臣従、秀吉の援軍でもって島津を駆逐しようと考えました。

対し、島津としては秀吉の援軍が来る前に九州を統一しておく必要があります。結果、必死になって九州を北上。次々と大友の拠点を征服していきます。

しかし、三国時代を築いた大友もただのザコではありません。耳川の戦いで大損害を出した大友でしたが、その後になぜか領土を拡張しています。全ては有能な、九州最強武将とされる立花道雪の力です。彼の存命時、さすがの島津も大友侵攻が進みませんでした。

しかし、道雪が死んだら、そうもいきません。もはや島津を止める者はおらず、大友領は次々と征服されます。ここで、時間稼ぎのために再度『小部隊別働戦術』が使用されます。この時、犠牲となったのは立花道雪の養子の父親、高橋紹運でした。

島津の侵攻を遅らせるために、拠点である岩屋城に篭った紹運は七百の兵で防御戦闘を行います。対する島津は義弘率いる五万の軍団。この戦いで大友方は一人残らず全滅するまで戦い、島津方に対して五千の死傷者を出させます。

この戦い、紹運の部下として決死の戦いを演じたのは全員が名のある侍でした。錬度の高さは戦国時代においても異常レベルであり、自ら隙好んで死地に乗り込んできた連中です。関ヶ原敵中突破をやらかした島津よりも兵質が上であった可能性さえあったのです。

この時間稼ぎと被害が致命的でした。結果として重要拠点である立花城に島津がたどりつくまでに、この戦いの会戦から一月が経過してしまいます。そのため、義弘による立花城の包囲から撤退はわずかに六日間のみ行われます。秀吉の援軍が間に合い、包囲を解くしかなかったからです。

別働隊の全滅を前提とした小部隊を有効に用いる別働戦術は、このように確かに意味のある戦術だったのでした。



------------大友宗麟個人の戦術能力------------

正直、宗麟本人の個人能力についてはあまり目立ったところがありません。しかし、大友氏最高領域を作り出している以上、やはり将軍の扱いが上手かったのでしょう、どちらかというと武田信玄に似ています。

実際、大友氏と言えば立花道雪であり、彼の活躍で大友は幾度も窮地を救われています。中でも耳川の戦いによる大敗北のあとの活躍はまさに八面六臂であり、彼があっての大友と言えたでしょう。

事実、道雪の死後が大友の衰退期であり、宗麟最大の功績は道雪の忠誠を一心に受け続けられたという一点であると私は考えています。



------------大友家戦闘教義の総括------------

常備傭兵制にこそ移行しなかったものの、鉄砲・大筒と時代の先を行く装備を充実させた大友氏は、非常に強力な戦国大名でした。周囲に竜造寺・島津・毛利と異様な強さの連中に囲まれながら滅びずにすんだのも強力な軍隊を抱えていたからです。

大友氏自体は後に滅びますが、秀吉をして九州最強武将は大友氏配下の立花宗茂(道雪の養子、紹運の実子)であるとまで言うほどですから、大友家の戦闘教義が弱かったということはないでしょう。

ちなみに、秀吉は本田忠勝を東国無双、宗茂を西国無双と呼んでいます。立花城の包囲を解いて撤退する島津義弘を宗茂が城から出撃し、寡兵ながら徹底的に叩いたのがよほど印象に残っていたのでしょう。義弘の戦上手は本州にも知れ渡っていたに違いありません。



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