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戦闘教義の変遷


異民族同士のぶつかり合いは、嫌が応にもお互いの文化を交流させます。それは戦争の技術や戦闘教義にも変わりはありません。戦いの中で、三国はそれぞれお互いの長所を吸収しながら戦います。結果として、吸収の速度は圧倒的に日本が上でした。

戦闘教義の変遷

『明・朝鮮陸軍の成長』

それでは、短く済む明・朝鮮連合から見てみましょう。日本の小銃戦術と火縄銃の質に驚いた二ヶ国は積極的に日本の技術を盗みます。鹵獲した銃を使用し、あらたに生産していきます。

実際、明の方では倭寇退治の英雄である戚継光が日本の火縄銃の性能に驚き、倭銃隊を編制して部下に組み込んでいます。さらに槍の穂先を切り裂く日本刀の力に驚いた彼は倭刀を製造させ部下に持たせます。すでに日本式の部隊は明に存在していたのです。つまり、その編制が加速した形になります。

朝鮮の方も投降してきた日本軍の武将から戦術や武器の情報を得て、戦術能力を高めます。しかし、元が元だったので急速な成長はなく、せいぜい鹵獲した装備で戦力を整える程度のものでした。



『日本陸軍・水軍の成長』

戦闘に慣れているためか、日本陸軍の成長速度はすさまじいものでした。まず、明軍の使う大砲の威力に驚いた日本軍は鹵獲した大砲を積極活用し、さらに日本国内でも大量の大砲を製造し始めました。

輸入もしっかりと行い、後に徳川家康はカルバリン砲を手にいれ、大阪城攻略に役立てています。日本陸軍は確実に成長していました。

成長いちじるしいのは水軍のほうでした。杉製で大砲搭載力に劣る日本軍は、文禄の役において李舜臣の部隊になすすべなく倒され、戦術をあらためることで一次しのぎをするのが精一杯でした。

しかし、文禄の役に際し、李舜臣は一気に活躍の機会を失います。それは日本水軍のすさまじい戦闘教義吸収の結果でした。朝鮮水軍の優越を認めた日本軍は朝鮮式の戦艦を建造し、船による戦力格差を完全に埋めてきたのです。

しかも、石弾や矢を飛ばす火砲しか持たない朝鮮水軍に対し、日本軍は大砲を大量に揃えてきています。結果として、まともにぶつかり合った朝鮮水軍は十隻の船を残し、残りの船全てを海の底に沈められてしまうほどでした。

ですが、海を渡ってこなくてはいけない日本軍は、遠海で使用できない亀船まではコピーできませんでした。それでも大勢に大きな影響はなく、朝鮮出兵の後半戦は日本が制海権を掌握し続ける展開が続きます。時折、亀船がそれを揺るがす程度でした。

最終的に、日本軍は海戦戦術の師である李舜臣を討ち取り、日本に帰国します。ですが、ここで培われた海戦技術は後の戦いで生かされたためしはほぼなく、大阪の陣で水軍がわずかばかりに活躍を見せるのを最後に、その存在価値は著しく失われる運命にあったのでした。



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