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ラストサムライたちの明治戦史 〜幕末、戊辰、西南、日清、日露〜


さて、今回は幕末から始まる明治期を生き抜いた侍たちの話をしたいと思います。
まずは、恒例になっている時代データをば。




舞台:主に日本(加えて全世界)


時代区分:近代
戦記タイプ:群雄割拠からの統一、独立維持の戦い


兵種関係:歩兵=主力兵科
騎兵=補助兵科
砲兵=補助兵科

特記事項:群雄割拠からの統一もの、急激な戦闘教義の変化、私兵集団の躍進
      意外と活躍する抜刀戦術、世界史上最大級の伝説となった海戦



徳川家康によって作り出された江戸幕府は250年の平和を日本人に与えましたが、ヨーロッパ諸国はその後も長い殺戮の時代を生きていました。戦争の中でその力は冴えわたり、アメリカ以外の国はヨーロッパと対等の付き合いをすることは不可能でした。

日本も平和の中で力が堕落し、まともにヨーロッパと戦う軍事力など持ってはいませんでした。しかし、弱い国は植民地となり、人々は侵略国の奴隷になるしかありません。最終的にヨーロッパの植民地にならずに済んだまたもな国は日本、タイ、トルコのみとなります。

日本は生き残るために海外の技術を貪欲に取り入れ、兵力の洋式化を行い、世界の軍事力に対抗しようとします。多くの血を流しながらも日本は明治維新を成功させ、最終的には世界でも五本の指に入るほどの存在となります(国際連盟加盟国的な意味で)。

今、私たち日本人が豊かな暮らしをできるのはこの時期にご先祖様たちが血を流して独立を保ってくれたおかげです。それでは、日本の歴史上でも特に重要なこの時期を順番に確認していきましょう。




-----幕末と戊辰戦争------

幕末とは、文字通り幕府の末、つまり江戸幕府の末期を意味します。徳川家によって支配されてきた日本の幕府が滅びるまでの時代です。徳川家は大小あわせて300以上に分かれた小国の盟主でしたが、終わりの時が訪れます。

最も強い勢力を盟主として国家統一を果たす封建制独特の同盟統一ですが、これはもはや世界にとって時代遅れとなります。一つの政府による統一国民国家は同盟統一国家とは比べ物にならないほど精強な軍隊を保持することができるからです。

戦国時代などの封建制時代はもっとも勢力のある盟主が部下である独立君主たちの盟主となって戦争を行います。大阪の陣における徳川軍を見ればわかりますが、参加武将の伊達正宗をはじめとする連中は家康を盟主としてはいますが、何かあれば自分の国を守るために平気で家康を裏切ります。これが封建制です。

ですが、国民国家において軍隊の裏切りは存在しにくいです。領地を持つ独立君主がいない国民国家はその戦闘力全てを一つの統一部署が管理します。家康を見限った伊達正宗の部隊が敵軍に寝返るなどといった事態は起こりません。せいぜい戦力を残した状態で、まだ戦えるのに降伏する程度の裏切りにとどまるでしょう。

そんな訳で、世界中に存在する封建国家と国民国家では動員力と戦闘力の安心感が段違いです。日本が独立を保つには国民国家に生まれ変わる必要がありました。しかし、幕府はそれを認めようとはせず、あくまで幕府主導の元で日本を変えようとしました。

しかし、徳川家の存在を疎ましく思う勢力はそれを認めません。洋式化に成功し、大きな力を持つ地方の中小国、薩摩と長州が主導となって幕府軍と戦闘を行います。幕府も洋式化には成功していたのですが、幕府と一緒に戦った藩がザコすぎたこともあって敗北を喫します。

最後の将軍である徳川慶喜が降伏した後も戦いは続き、北海道まで旧幕軍は交戦を続け、降伏することで幕府勢力は滅亡します。こうして、日本は封建国家から、天皇を象徴に留め統治権を与えない立憲君主制国民国家へと変貌を遂げることになったのです。



〜幕末、戊辰戦争を軍事的に見てみる〜

幕末における戦いは洋式化の如何が勝敗を分けました。戦国時代で思考回路が止まっている軍事学は、血にまみれながら精錬された西洋軍事の前ではカス扱いだったからです。見識ある日本人は、外国の技術を取り入れる重要性に気付くことになります。

洋式化に成功した勢力として有名なのは、幕府を倒した長州と薩摩です。これらの国は西や南に存在したため、外国との交易に有利な位置でありました。これが彼らの運命を決めます。特に種子島に近い薩摩等は、戦国時代でも鉄砲入手が容易であったために戦国時代でも強国として扱われました。

さて、とりあえず軍事的要素を武器から見ていきましょう。戦国時代の流れを決定した鉄砲は、三十秒に一発撃てるかどうかという低速射撃兵器でした。さらに火縄銃であったために火縄の容易の煩雑さ、そして火縄の火種が危険であるため、密集戦闘に不向きな兵器でした。

日本はここで銃の進化が停滞しますが、ヨーロッパはこれが微妙に進化します。火を直接火薬に押し付ける火縄銃のようなマッチロック式の銃は命中率が高いのですが、欠点ばかりが見受けられます。そこで、ヨーロッパでは命中率は下がるが、使用に便利で密集陣形が容易な銃を作り出します。

それが火打石を使用することでその火花で火薬を爆発させるフリントロック(火打石)式のマスケット銃です。火打石を使用することで火縄を使用しないこの銃は、火種の危険がないので密集してしようできます。こうして銃兵密集陣形を組んだ歩兵が一斉射撃して敵を面制圧する弾幕戦術が生まれます。

全ての歩兵が銃を持つことでヨーロッパでは鎧という存在が薄れ、騎兵しか着れない重い鎧以外が絶滅します。ナポレオン戦争の時代はマスケット銃の全盛期で、歩兵と騎兵が入り乱れた戦場が存在していました。

しかし、それ以降の銃はさらなる発展をします。銃の筒の中に線条(ライフリング)を刻むことで、弾丸を回転しながら発射する技術を全ての銃に付与することになります。

一応、マスケット銃の時代にも線条は存在したのですが、弾丸が円形であるためいろいろ不都合が生じ、射程が二倍に伸びる代償として発射速度が四倍以上になるほど微妙な兵器でした。
これをミニエーと呼ばれる弾丸が解決します。これを使用する銃は数倍の射程を持ちながら、発射速度は通常のマスケットと同等。ライフル銃を使用して行われたアメリカの南北戦争は後の戦いの趨勢を決定づけました。破壊力と射程を伸ばしたライフル銃は騎兵の存在価値を根底から叩きつぶします。

マスケット銃の時代には円弾であり、貫通量の小さい弾丸であったため、四ミリ程度の装甲しかない鎧でも防げました。

しかし、ライフル銃の時代になるとその程度の鎧では銃弾が防げなくなります。こうして、戦場から鎧が消滅しました。さらに、陣形を組むことは敵に身をさらすだけであり、密集陣形歩兵が消滅することになります。

結果、兵士たちは地形に身をひそめて戦うことになります。密集陣形同士がぶつかる時代は消滅したのです。さらに後装銃が誕生することによって発射速度が三十秒に一発から、六秒に一発へと進化します。正面戦闘において、地形に身を隠せず図体の大きい騎兵がゴミと化した瞬間でした。

幕末は世界の軍事がこのような時代に訪れました。戦国式の歩兵密集陣形戦術を用いる旧勢力は洋式化した近代軍に叩きつぶされます。外国と戦争して戦術的敗北を喫した薩摩と長州は積極的に洋式化を推し進め、幕府側を圧倒します。

もちろん、幕府側も西洋式の力を知っており、伝習隊と呼ばれるフランス式近代軍を作っていましたが数が少なく、同盟軍の旧式連中の敗北につられて敗走することになります。ドラマとかだと、幕府軍は全部旧式なのですが、実際はそこまででもなかったんですよね。

世間一般では洋式化した新政府軍が旧幕軍を鎧袖一触したと考えられていますが、実は結構、旧幕軍が勝利したケースが存在します。新政府軍と旧幕軍の軍事技術力が異常なまでには隔絶していたわけではないということがこれでわかります。まぁ、隔絶していたのは間違いないんですけどね。

ちなみに、当時の世界はイギリスとフランスが世界制覇を争っており、彼らの侵略の基本は当事国を内戦に追い込み、その片方ずつにイギリスとフランスが介入し代理戦争をさせるというのが常態でした。日本もそのご多分に漏れません。

旧幕府軍にはフランスが肩入れをし、新政府軍にはイギリスが肩入れをしました。すでに述べたように幕府軍精鋭部隊の伝習隊はフランス流戦術を取り入れ、長州と薩摩はイギリス式戦術を取り入れました。他の主要ではない藩はオランダ流やドイツ流を取り入れているところもありました。



〜歴史に名を残した私兵集団〜

歴史の混乱期には下層階級の人間の成り上がりが可能になります。戦国時代に百姓から日本の支配者にまでのし上がった豊臣秀吉などがその典型例でしょうか。さすがにそこまで露骨ではありませんが、幕末の時代にも庶民の成り上がりが見られました。

まず紹介するのは新政府軍に参加した長州藩に存在した『奇兵隊』です。高杉新作によって生み出されたこの私兵集団は身分を問わず募集され、洋式教育によってイギリス流戦術を身に付けました。この部隊は長州が参加した多くの戦いで活躍し、その有効性を証明しています。

後に日本の総理大臣になった伊藤博文や、日本陸軍最重鎮となった山縣有朋など、下層民出身者が所属していたことから、有能な人材のプールとしても役立ったようです。それとも、奇兵隊がこれらの人物を育てたと言った方がいいのでしょうか。

逆に旧幕府軍に参加した私兵集団が『新撰組』です。近藤勇を局長とするこの私兵集団は剣術の達人を中心に構成される剣客集団であり、刀を主力武器にする非戦場向きの部隊でした。市街地において屋内戦闘を中心に考えた組織であったため、取り回しに優れた近接武器である刀が主要武器に選ばれたのはおかしなことではありません。

農民出身の近藤勇は新撰組を率い、新政府軍と戦場で戦うことになります。新撰組を率いる近藤勇は、剣術師としては一流であっても戦闘指揮官としては三流であったため、あっさりと敗れて敵に捕まり斬首されています。新撰組が戦闘部隊として機能するようになるのは指揮官が土方歳三に変わってからです。

剣術師としては二流程度の土方でしたが、戦術指揮についてはかなりの才能を有していました。彼の率いる新撰組および旧幕軍部隊は獅子奮迅の活躍をし、侵攻する新政府軍を幾度か撃退、敵の城を奪う活躍をするなど、軍事技術力に勝る敵を相手に大立ち回りをします。

特に北海道における戦いでは二倍以上の敵を数度押し返し、味方の失態で撤退したように、ただ一人息を吐き続ける存在であり続けました。旧幕軍最後の部隊が降伏するのも、土方歳三の死後となるのです。

この二つの部隊の特徴は身分を問わず隊員を集めたことです。身分にこだわらない人材登用は有能な人材を広い人材プールからかき集めることができるため、有能な部隊を作る助けになります。

後に常識となった徴兵制の前段階を取り入れたこの二部隊のある程度の成功は、むしろ当然のものなのだったかもしれません。

ただし、奇兵隊には高杉晋作、新撰組には近藤勇と力のあるリーダーがいたことが彼らの幸運であったことを忘れてはいけません。幕末で成功した私兵集団はこの二部隊だけであり、ただ単に身分を問わず人間を募った事だけが勝因であるという考えは、決して正しいものとは言えないと思われます。




------最大の士族反乱、西南戦争------

戊辰戦争において幕府軍を叩きのめした新政府軍は日本を武力統一し、藩を解体して中小国の連合体という封建時代の旧制度から脱却しました。しかし、旧勢力を構成する人材は滅びていませんでした。まぁ、日本人たちが誇る『サムライ』とかいう連中ですね、具体的に言うと。

既得権益を持って愉快に生きていた彼らですが、彼らに対する待遇を維持しようとすると国家予算の相当な部分を消費する必要があり、明治政府はこの既得権益を消滅させることを決めます。

困ったサムライどもは各地で政府に対する反乱を起こします。ですが、これらは次々と明治政府の軍隊に叩きつぶされました。

しかし、政府を震撼させるほど大規模な反乱がおきることになります。明治政府樹立の功労者である西郷隆盛を大将として起きた薩摩の反乱です。西南戦争と呼ばれる戦いは、日本史上最後の大内戦となりました。

西郷隆盛を筆頭とするサムライ軍団は新政府軍と勇敢に戦いますが、最終的には消滅することになります。この戦いで旧勢力が蘇る可能性は完全に潰え、日本はサムライと呼ばれる階級を失い、建前だけの四民平等の中、皇族、華族、平民の三大階級がうごめく国家となるのです。



〜西南戦争を軍事的に見てみた〜

西南戦争は軍事技術に優越する明治政府軍と、軍事技術をはじめとしてあらゆる要素で劣っていた薩摩軍との間で激戦が繰り広げられました。簡単に兵力だけで見ても政府軍七万に対し、薩摩軍三万と、数だけでも二倍以上の開きがありました。

主力武器である小銃にも差があり、政府軍は後装式で六秒に一発射撃できる銃を使用しましたが、薩摩軍は三十秒に一発射撃の旧式銃でした。ライフルだったので射程距離や命中率などは致命的に開いてはいませんでしたが、射撃速度を考えただけでも数以上に戦闘力の開きが理解できると思います。

戦いは基本、数と軍事技術に優れた政府軍が勝利を重ねることになります。しかし、政府軍は薩摩の取ったある戦術に苦しめられ、勝利がおぼつかなくなります。その超絶戦術こそ、抜刀突撃です。

刀を振りかざして敵に突っ込む抜刀突撃。幕末剣客ものを読んでると、みんなそろって「剣の時代は終わった」とか言ってますが、そんなことありません。はっきり言いますが、剣や刀は第二次世界大戦まで存在意義を失っていない兵器です。

ライフルが発達し鎧を着る兵士がいなくなったことで、鎧に弱く携帯に優れた剣の価値が急上昇しました。

錯綜した地形や塹壕をはじめとした接近戦が存在する空間において、六秒に一発しか打てない小銃よりも、白兵戦向きの兵器の方が役に立ちます。ちなみに、塹壕戦において最も役だった格闘兵器はスコップだったそうです。

薩摩軍は剣術師たるサムライで構成された精鋭たちでしたが、政府軍の兵士は農民や町民を引っ張って来ただけの徴兵制兵士です。

根性もなければ格闘能力も低いです。そのため、遠距離戦ならともかく、接近戦において政府軍はカス扱いでした。命がけで突っ込んでくる薩摩軍に恐れをなして壊走する場面も多々。

憂慮した政府軍はある特殊部隊を編成を決めます。元サムライである士族を中心に構成される警察に助けを求めたのです。警視庁から選りすぐられた剣術師を集め、刀のみを持たせた白兵戦特化部隊として『抜刀隊』を編成します。この抜刀隊は新撰旅団と名付けられた部隊に組み込まれました。

抜刀隊の剣術師たちは薩摩の剣豪たちに後れをとらず、薩摩軍の持つ唯一の優位は失われます。ちなみにこの抜刀隊に参加した剣術師の中に新撰組の『斎藤一』がいたことはあまりにも有名。さらに言うと新撰旅団第一大隊を率いたのが旧幕軍最強武将『立見尚文』です。

薩摩軍は抜刀隊をかなり恐れており、戦場で一番困る存在は雨(和服で戦ってるので塗れると動くのが大変になるので)だが、次に困るのは抜刀隊と公言していました。ちなみに、当時の薩摩軍は編成された新撰旅団を、政府が人切り集団の新撰組を再編成したのかと驚いたそうです。

このように、圧倒的な力を持つ政府軍にとって最大の弱点が兵士の格闘戦能力の低さでした。しかし、それでも士族を数で押し切れたことから、政府は徴兵制の力を思い知ります。

この後、政府は兵士に対して徹底的な教育を施し、世界的に見ても格闘戦能力の高い兵士を鍛え上げることに成功します。西南戦争は軍事的な意味で明治政府に大きな教訓を与えました。続く大戦争において日本が勝利できた遠因は、間違いなく薩摩軍が見せつけた精強さと政府軍の惰弱さから生まれた教訓だったと言えるでしょう。



------日清戦争、近代化の量と質------

西南戦争から17年、日本はヨーロッパの軍事技術を学び、多くの犠牲を払いながらも国家を世界に負けないように育て続けていました。多くの日本人を海外留学させ、軍事に限らず多くの物を吸収し、日本の助けとしてきました。

ヨーロッパの技術を学び、近代化を目指すのは、何も日本だけではありません。世界中の弱小独立国も近代化を目指し、富国強兵に邁進します。この時点の世界史において『近代化』というのは戦国時代における『鉄砲装備』に匹敵する存在で、これが出来ない国は滅びます。

アジアの覇権をめぐり、東洋に二大強国である日本と清が激突するのは避けられない事態でした。両国は数十年かけて近代化を目指したその力をがっぷり四つでぶつけ合うことになります。

しかし、両国は領土の大きさと人口の圧倒的差から多くの人々が日本の敗北を予想します。しかし、少数の人間は日本の勝利を予見していました。

兵力、兵器、地の利、あらゆる点で上回っていた清軍でしたが、日本はそれを上回る物を持っていました。量で勝る清軍に対し、日本は質において優越していました。より強く近代化に成功していた日本は、清をに対して圧倒的勝利を得ます。

こうして、日本近代軍史において最大級のイベントである日露戦争への舞台が整いました。戊辰、西南、日清戦争という犠牲に満ちた悲劇的な戦いの数々で、日本は多くの経験値を得ることになります。

将軍をはじめとする多くの人々がこれらの経験を持っていることが、歴史の大局を決定づけることとなるのです。



〜日清戦争を軍事的に見てみる〜

日清戦争に関しては、陸軍と海軍を分けて解説しようと思います。それでは、まず陸軍から確認してみましょう。

西南戦争を終え、充電期間を得た日本軍は兵士の質を急向上させます。勇敢で有能な兵士で構成された日本軍は、世界から兵質最強のコメントをいただくことになります。

日本陸軍は、幕末期においては各国の軍事技術をバラバラに取り入れていました。旧幕軍はフランス流戦術を取り入れ、新政府軍はイギリス流を主力にしました。他にはドイツ流とオランダ流などを取り入れる藩もありました。

戦争に勝利した新政府軍でしたが、ヨーロッパ最強の陸軍を誇るフランスの力を改めて認識しなおし、日本陸軍はフランス流を正式に取り入れ、陸軍を鍛え上げました。西南戦争はフランス流でもって薩摩軍と対戦します。

ですが、日清戦争期においての日本軍はいつの間にかドイツ流に変更されています。これはヨーロッパにおいてプロイセン(ドイツ)とフランスの大戦争、普仏戦争が行われます。この戦いに快勝したドイツに学ぼうと考えた日本は、フランスを見限ってドイツ流を学びます。

周囲を敵に囲まれている地理のために戦闘を短期決戦で終わらせないと他の国に攻め込まれるという恐怖感から、ドイツの戦術は短期決戦を求める機動戦を得意とするようになります。

これを取り入れた日本はドイツ流の長所である機動戦による高速機動戦術と、ドイツ流の短所である攻城戦の不得手という特徴を引き継ぐようになります。

さて、ドイツ流を取り入れた日本軍でしたが、騎兵においては話が変わります。日本の東洋式騎兵戦術を西洋式に塗り替えることを任命された秋山好古が、騎兵をフランス式にすることを求めたからです。

ドイツに負けはしたが、フランスの騎兵戦術の方が優れていることを主張し、日本はドイツ流歩兵と砲兵+フランス流騎兵で構成されることになります。ちなみに次に語る海軍は世界最強海軍を持つイギリス流を取り入れるので、三ヵ国のいいとこ取りをすることになります。

イギリス流を取り入れた日本海軍は外国から軍艦を購入し、世界に対抗できる海軍の構築を目指すことになりました。こうして日本は陸軍と海軍を充実させました。ところが、問題がなかったわけではありません。それは、日本の貧乏さにありました。

物事を進めるためにはハードとソフト、二つが必要になります。軍隊においてハードは装備、ソフトは戦術です。柔軟な日本人は外国のやり方を見事にコピーし、ソフトである戦術面は見事に取り込みました。しかし、ハードである装備に問題がでました。

陸軍の場合は国産の村田銃の性能が微妙であり、連発銃を持たずに戦いました。歩兵の火力という点では負けていたのです。海軍はもっと悲惨です。当時、戦闘の主役になる軍艦は大火力・重装甲・低速で戦場の支配者であり、圧倒的存在でした。軍艦に何とか対抗できる巡洋艦は中火力・軽装甲・高速を武器にする補助的存在です。

大抵の海軍は軍艦を戦闘の主役に据え、巡洋艦を補助戦力として扱いました。金持ちな清国は外国から軍艦を二隻購入し、巡洋艦を十隻購入。まさに堂々の布陣と言ったところでしょう。しかし、日本は巡洋艦を八隻しか持っていませんでした。はっきり言って、まともにやりあったら勝ち目はありません。

しかし、日本は勝ちました。旧来のように船を横に並べて戦う横陣ではなく、船を縦に並べる単縦陣を組んで戦ったからです。当時、船に装甲を施せるようになったことで砲撃で船を沈めるのは難しいというのが通説でした。そんな中、リッサ海戦という戦いで体当たり攻撃が有効だという戦訓が存在していました。

古来より存在する、船の先端に取り付けた衝角という兵器を敵船の横っ腹に叩きつけ、体当たりによって船に大ダメージを与えるという戦術。砲戦主体の海戦が先祖返りした瞬間でした。

世界各国は衝角戦術が最大の威力を発揮する横陣を主体にしました。衝角が船の先端に存在する以上、横に並べる方が有利だからです。

対して、単縦陣は船を縦に並べます。こうすると敵に船の横を向けることになります。船の装備する大砲は船の側面に並べるために、最大火力で敵を撃破出来ます。しかし、リッサ海戦において砲撃が決定打にならなかった以上、この陣形の効果は疑問視されるようになりました。

しかし、単縦陣は先頭の船の後ろにくっついて動けばいいという単純さから、高い機動力を誇ります。日本海軍は単縦陣を用いた機動戦を演じ、火力戦で勝負を決めようとしました。正面から戦って勝ち目がない以上、機動力と戦闘技術の高さで勝負を決めるしかなかったのです。

結果、兵器の質と数で優れる清国軍は、兵士の質と戦術思想の差によって日本軍に敗れることになります。陸においても同様のことが起こり、兵器の数と質で上回る清国を、兵の質と戦術思想で超越していた日本が勝利をおさめます。

ちなみにこの戦い、日本軍が精神主義に陥る原因の一つとなります。日本軍は劣悪な軍事技術と兵力差を幾度となく打ち破ってしまったために、精神主義に偏ってしまうんですね。冷静な連中も少なくはなかったのですが、声のデカイのが力をもってしまったのが旧軍の悲劇とでも言ったところでしょうか。

最後に、参謀制度について説明します。参謀制度は広大になりすぎた戦場に対応するために登場しました。ナポレオン戦争を境として兵士の動員力がケタはずれにあがったことが原因です。

過去の時代において、戦闘は多くても万単位で行われ、両軍合わせて十万の兵力が一か所に集中するのは稀なことでした。しかし、一般市民を徴兵制度で兵士に仕立て上げることで、フランスなどの国は兵力三十万人体制を築きあげます。

十万を超える兵力を率いての戦いは、兵士の食料を手に入れる問題から『分進合撃』と呼ばれる機動を行うようになります。具体的に言うと、決戦地までは別行動を行い、決戦地で合流し、敵軍を撃破するようになります。

この『分進合撃』を得意とした将軍がナポレオンです。ナポレオンは兵士の高い機動力を活かして『分進合撃』中の敵に、自分は兵力を集中する戦い方で勝利を稼ぎます。しかし、ナポレオンがその力を発揮できたのは自分が全てを指揮しきれる状態のみでした。

ナポレオンは『命令戦法』と呼ばれる直接指揮戦術で配下の将軍を操りました。これは天才にのみ可能な、最強の頭脳を必要とするスーパー戦術です。最強の天才であるナポレオンのみが使いこなせた戦術で、ナポレオンの指示に従った兵士たちは勝利を重ねていきます。

しかし、それはナポレオンの命令が迅速に届く距離においてのみのこと。ナポレオンがその場にいないフランス軍の弱さはかなりのものであり、ナポレオン不在時には敗北が目立ちます。しかし、ナポレオンがいるフランス軍は異常に強かったのでした。

ナポレオンという天才を前にして、ナポレオンの敵は天才無き軍隊で天才の軍隊を倒そうと考えました。そのため、彼らは『命令戦法』を捨て去ります。代わりに開発した戦術こそが、『訓令戦法』です。これには、しっかりとした準備と組織の構築が必要とされました。

『訓令戦法』とは同質の思考回路を持った者たちを複数用意するという下準備が行われます。まず、一つの場所に人間を集めてそこで教育を行い、共通の思考が出来る人間を多数用意し、統一した思想で同質な意識を持った人間を作ります。

そして、彼らを部隊の隅々に配置し、将軍の補佐役としておきます。これが参謀です。参謀は作戦における共通の認識を他の者たちと持つため、全ての部隊が同じ考えの元に行動できます。部隊を指揮する将軍は参謀将校たちを通して常に作戦司令部の思想を理解しながら行動できるようになります。

彼らは現場で自由裁量の元、命令を達成するために自由行動が行えました。最低限の使命さえ果たせば、その方法は自由。このような訓令に従い、一致団結して行動する戦術を『訓令戦法』と言います。ナポレオン戦争の後半は『命令戦法』と『訓令戦法』がぶつかり合いましたが、勝利は『訓令戦法』の物でした。

ナポレオン戦争における最終決戦であるワーテルローで、ナポレオンは別動隊に敵追撃命令を出しましたが、本隊が敵との戦闘をはじめました。ナポレオンはその別働隊に援護に来て欲しかったのですが、伝令が到達しませんでした。

自由裁量で動ける指揮官なら伝令が来なくても確実に救援に行く場面です。なにしろ、戦闘の音が聞こえる範囲に別働隊がいのたですから。

しかし、その別働隊は本来の任務である敵の追撃を続けました。理由はナポレオンの命令です。命令は絶対であり、逆らうことは罪だったからです。ナポレオンは自身が天才であるが故に自分の命令を絶対視し、『命令戦法』は命令の遵守により成り立ちました。

一方、『訓令戦法』で動く敵は自由に戦えます。ナポレオンを倒すという一点で協力する連合軍はナポレオン別働隊の追撃を回避し、ナポレオン本隊に横撃を食らわせます。結果、ナポレオンは敗北し、歴史の表舞台から去ることになります。『訓令戦法』が『命令戦法』を倒した瞬間でした。

しかし、登場直後はこれの生みの親であるプロイセン王国でさえもその価値に気付かず、その存在が再び明るみに出るのは普仏戦争を待たなければなりません。そして、日本は参謀を操る機関である参謀本部を復活させたドイツ(プロイセン)から戦術を学びました。

日本は参謀制度を取り入れることにより広大な戦場で臨機応変に戦うことを可能とする情報部隊を手に入れました。しかし、ドイツ参謀本部はシステム的な欠陥を孕んでおり、それがドイツと日本の未来に禍根を残すことになります。

日本とドイツの参謀制度は参謀の権限が強すぎるために、参謀が独断専行してしまう恐れがあったのです。そして、日本とドイツはこれで痛い目を見ることになるのでした。



------日露戦争、明治維新の総決算------

日清戦争勃発の十年後、日本はロシアの侵略を恐れてロシア南下政策を掣肘すべく、戦いを仕掛けることになります。幕末から三十年の時を経て、日本はついに軍事力最強の白人国家と存亡をかけた総力戦を演じることになったのです。

日露戦争は日本史においてどころか、世界史において初の大兵力がぶつかりあった戦いとなりました。両軍合わせて五十万の兵士が一か所に集った戦いは歴史に類を見ません。その後は総力戦が普通になるので、その嚆矢となる戦いであったと言えるでしょう。

圧倒的人口、圧倒的国土、圧倒的兵器量を持つロシアは日本がまともに戦って勝てる相手ではありませんでした。人口は三倍、国土は二十倍以上、兵器量は海軍だけでも二倍弱。日清戦争の時もそうでしたが、日本の勝利は短期決戦を挑んで勝利し、講和に持ち込むしかありませんでした。

日本は十万に近い死者を出しながらもこの戦いに勝利します。白人国家と一対一で戦い、勝利したことで日本は国際社会から認められる一等国として扱われるようになりました。しかし、世界は白人の支配する空間であり、黄色人種国家の日本は最後まで蔑まれ続けます。

日本は人種差別を撤廃しようと国際連盟に打診しますが、自由と平等の国であるはずのアメリカが人種差別政策廃止を拒否することによって旧軍の暴走がはじまります。

しかし、日本の勝利は黄色人が白人に対抗できる事が可能であることを世界に知らしめていました。人種差別との戦いにおける、最初の非白人の大きな勝利であったことに、日露戦争には大きな意義がありました。



〜日露戦争を軍事的に見てみる〜

日露戦争は明治における戦役の総決算と言える戦いでした。幕末の頃から日本人が血と涙を流しながら戦火を潜り抜けて得た全ての力が、この戦いの勝利にそそがれました。それでは陸軍から見ていきましょう。

ドイツ流の歩兵と砲兵、そしてフランス流の騎兵戦術が陸軍の根幹をなしていました。機動戦を戦術の基幹に据える日本軍でしたが、騎兵の使い方はあまり上手ではありませんでした。日本軍は攻撃的に使用すべき騎兵を防御戦にまわしてしまったのです。

しかし、見せ場もあります。日本騎兵を育てた秋山好古は騎兵の攻撃性を生かすことはできませんでしたが、機動戦において世界史上稀な大迂回戦術で敵を動揺させます。176騎の騎兵を大迂回させ、敵の後方に出現、行きから帰りまでの全行程は2000キロにもなりました。

ロシア軍はこの後方機動に驚きました。総勢数万の騎兵が自分たちの後方で動いていると勘違いしたロシア軍は四万の兵力を迂回騎兵部隊対策に回します。この時期に行われた日本とロシアの最終決戦である奉天会戦はロシア37万、日本25万で行われました。

なんとか勝利した日本でしたが、辛勝でした。もし、176騎の騎兵が4万の敵軍を引きつけなければ、奉天での勝利はなかったでしょう。騎兵は日露戦争において大きな活躍をしたのです。

歩兵は歩兵で戦史上大きな功績を残します。遼陽会戦において、日本軍は戦史上稀な一個師団による夜襲を敵軍に仕掛けます。第一軍に所属する第二師団は夜襲を得意技としており、以後、夜襲師団の異名をとるほど存在でした。彼らは通常は少数で行われるべき夜襲を一万人以上の規模で行い、成功させてしまったのです。

以後、夜襲は日本のお家芸となり、多くの勝利を生み出すことになります。さらに勇敢な日本の歩兵は接近戦を得意としており、闇夜の白兵戦は有利な戦場でもあります。戦史に名を残す一個師団による夜襲でしたが、しかし、これは敵が当時の陸戦最強兵器である機関銃をろくに持たないからこその成功でもありました。

機関銃は一人の兵士が短時間で大量の弾丸をバラまくことを可能とする兵器で、一人の兵士が一個大隊(400〜600人くらい)を止めることが可能とまで言われるほどの超兵器です。この存在が戦場の様相を大きく変えます。

機関銃の存在する戦場では、敵に体を見せた兵士はひき肉になる運命を約束されます。防御戦において特に力を発揮する機関銃は旅順要塞において最大の威力を発揮し、日露戦争における死者の半分を旅順戦において生産するほどでした。第一次世界大戦の塹壕戦を引き起こす兵器がまともにぶつかりあった最初の戦いが日露戦争だったのです。

日露戦争においては砲兵も大きな活躍をしました。とくに28サンチ(センチ)榴弾砲は設置に数十時間を要するという弱点を持ち合わせながら、強大な破壊力で戦場を支配しました。旅順陥落の原因の一つにもなったこの巨砲は、旅順要塞にこもる敵艦隊を殲滅させるほどの威力を秘めていました。

さて、海軍を見ていきましょう。日清戦争の頃と違い、日本海軍の軍備は強大なものとなっておりました。六隻の戦艦と八隻の装甲巡洋艦(強化型の巡洋艦の名前)を持ち、世界最先端の技術を誇っていました。

しかし、ロシアは戦艦十四隻、装甲巡洋艦十五隻と異常な戦力差。日本軍はこれを確固撃破で解決します。特に日本海海戦は伝説となる戦いで、ロシア海軍を海上で文字通り殲滅させることに成功します。

この時の戦いを勝利に導いたのが丁字戦法と呼ばれる戦術です。船は横に多くの艦砲を備えており、敵に対して縦向きよりも横向きの方が大きな火力を発揮します。さらに、この頃は単縦陣が基本です。丁字戦法はこの常識への挑戦でした。

敵前で九十度回転することにより敵に横っ腹を見せつけ、それに続く味方も横を向きます。味方を横線とし、敵を縦線とすることで丁に近い形を作り、戦闘の敵を複数の味方でタコ殴りにするこの戦術が、戦闘の流れを決定づけました。

結果は日本の大勝利、被害軽微にして敵の完全殲滅。海の上の戦いは敵を取り逃がすことが多く殲滅戦は普通あり得ないのですが、日本はそれをしました。海戦においてこれほどの偉業を成し遂げた戦例は他になく、海戦史において日本海海戦を勝利に導いた東郷平八郎に匹敵する存在は、トラファルガーに勝利したネルソン程度のものです。



------まとめ------

幕末から日露まで、明治期はまさに日本において最大級の激動の時代。さらに、それが連続して起こりました。幕末で活躍した英雄が日露まで生き残り、戦争の勝利を生み出す以上、私は幕末から日露までを一つの時代として扱うことを好んでいます。

新撰組から帝国陸軍と広い時代をカバーするこの時代。幕末は幕末、日露は日露とバラバラに扱う風潮も根強いですが、あえてこれを一つに見ることで戦史としての面白さに磨きがかかります。

サムライの時代が終わり、舞い込む西洋戦術と巨大な軍事革命。悲劇的内戦の連続から数倍の国力を持つ敵との連戦。陸軍、海軍ともにその力を磨き、特に海軍に至っては世界中の海軍がマネをしたくなるほどの新戦術を生み出すに至ります。

日本史において最重要とされるこの時代、ぜひとも楽しんでいただきたいところであります。


では、最後にマンガや小説等を紹介させていただきます。





〜幕末関係 佐幕側作品〜

『小説』

燃えよ剣

土方歳三を主人公に描く幕末小説。司馬遼太郎の作品なので文句なしの一品です。ケンカ好きの悪ガキであった「バラガキのトシ」が低身分層の寄せ集めを強固な戦闘集団に鍛え上げていくという成り上がり物語と新撰組の終焉の寂しさなどは、ぜひ読んで知っていただきたいところです。



『マンガ』

人斬り龍馬

近藤勇を主人公に描く幕末マンガ。人を殺したことがないとされる竜馬を徹底的な悪役と描き、それと敵対する新撰組という構図を取っています。なかなか斬新な作品であり、ぜひ一読をオススメします。



『ドラマ』

新選組 !

近藤勇を主人公にして描く大河ドラマ。幕末という混乱の中で成り上がっていく英雄たちの活躍と悲劇を描いた間違いない名作。やや軽いノリに苦情がきたりもしていますが、そんなに悪くはないと考えます。ただ、新撰組は近藤勇死後も活躍するので、続編として土方歳三が主人公のテレビスペシャルも作られていますので、そちらもどうぞ。



〜幕末関係 倒幕側作品〜

『小説』

竜馬がゆく

同じく司馬遼太郎の傑作小説です。もっとも有名な幕末の人物である彼の激動の物語は、いつ読んでも面白いものです。倒幕のために動きまわる彼の活躍はすさまじく、大政奉還、薩長連合など幕末最大級事件の流れを追いながら、その生涯の終わりまでを楽しんでいただきたいものです。



『マンガ』

おーい!竜馬

竜馬を描いた作品のなかでも最高傑作の一つに数えられるこの作品は、竜馬の幼少時からその死までを丁寧に描いた作品です。中でも江戸時代に存在していた身分差別を強く描いた作品で、それを跳ね返そうと動きまわる下層民の動きは痛々しく、悲しくもあります。中でも、人斬りと呼ばれた以蔵のエピソードが強く記憶に残るものでした。



〜西南戦争作品〜

『小説』

翔ぶが如く

司馬遼太郎大先生が描く、西郷隆盛を主軸に添えた倒幕後の物語。作り上げられた明治政府であったが、日本は武家社会から完全に脱しきってはおらず、多くの歪さを抱えていた。そんな時代に起きた西南戦争を描いた作品だが、正直読みにくい作品なので万人向けではないが、とりあえずオススメ。何しろ、西南戦争を扱った作品が圧倒的に少ないので選択肢があまりないのが実情です。




〜日清、日露戦争作品〜

『小説』

坂の上の雲

司馬遼太郎先生が描く、明治期の物語。明治陸軍に進み日本騎兵を作り上げた秋山好古、その弟で海軍参謀になった秋山真之、そして文学面で活躍した正岡子規の三人を主人公にして明治期の文化と戦争を描いた作品。

超々オススメ作品なのですが、戦記好きな人間なので子規を描くシーンは正直面白くありませんでした。子規が死んだ後は超面白いです。どちらかというと日露戦争を描くことに重点を置いた作品なので、日清戦争はかなりはしょられており、残念な印象をうけました。




『マンガ』

日露戦争物語

巨匠、江川達也が描く明治期の物語。坂の上の雲の影響からか文化面を強く描きながらも戦争を主軸に描いている超熱い作品。日本が作り上げた世界に通用する明治軍の創造を事細かに描いているところに好感が持てる。

だが、名前に偽りがあり、打ち切りのためか日清戦争までで物語が停止してしまっている。新装版ではその先も描くらしいが、どうなるかは不明。でも、日清戦争まででも十分面白いので、この時代を知りたい人はこれから入ってみるのも悪くはないと思います。





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